2017年12月10日日曜日

波と水のたとえ[Thich Nhat Hanh]


話:ティク・ナット・ハン




中部経典には、

「これがあるのは、あれがあるからだ。

これがないのは、あれがないからだ」

とあります。

無常はまた、「固定した形がないこと(アラクシャナ=無相)」ともいえます。存在のありのままの姿は、どんな概念や言語表現によってもとらえられません。私たちには、知覚と思考の媒介によって現象をとらえる癖がついているので、現象の源にある本質にじかに触れることができなくなっています。知覚と思考は「固定した形(相)」の世界そのものなのです。



万物には「固定した形がない」という性質を理解するために、よく引き合いに出されるのが、波と水のたとえです。

波は高くなったり低くなったり、現れたり消えたりしますが、波を作っているもとの水には、高低も生滅もありません。高い低い、生じ滅する、これらの相は水の実体にはまったく影響しないのです。



私たちは外見に影響されて、泣いたり笑ったりします。物事の実体を見たことがないからです。実体(スヴァバーヴァ=自性)とは、あらゆる現象の本質そのもの、そして私たちの本性でもあります。

波が生まれ死んでいく、その側面だけを見るところに苦しみがあります。波のもとである水に目を転じ、どんな波も水に戻っていくことを知れば、恐れはなくなります。





無常の本質を洞察すれば、無我の本質が見えてきます。両者は別者ではないからです。

すべては一瞬ごとに移り変わり、つぎの瞬間にもまったく同じということはありえません。無常とは無我であり、両者はひとつです。

時間という観点からは無常といい、空間という観点からは無我というだけで、じつはまったく同じことなのです。








引用:ティク・ナット・ハン『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』

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