2018年4月26日木曜日

中村元とは?【植木雅俊】



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仏教学者 中村元 求道のことばと思想 
角川選書 – 2014/7/24 植木 雅俊 (著)





はじめに


中村元(はじめ)の肩書は、しばしば「仏教学者」とされている。確かに、ずば抜けた仏教学者であることに間違いないが、それには収まりきらないところがあまりにも多い。「インド哲学者」だとしても同じことだ。

中村は、卓越した仏教学とインド哲学の研究に基づいて、東西の思想・哲学を俯瞰し、最終的には普遍的思想史の構築の必要性を訴え、死ぬ間際まで自らそれに取り組んだ思想家であり、哲学者であったといえよう。


博士論文では、サンスクリット語で書かれたアビダルマや、大乗仏典、ジャイナ教や、バラモン教の文献、さらにはギリシア語の文献や、漢訳、およびチベット語訳の仏典に引用された断片から、ヴェーダーンタ哲学史の千年にわたる空白部分を復元した。インド人の学者たちをも驚かせるほどの離れ業を成し遂げた。

サンスクリット語、パーリ語、チベット語、英語、ドイツ語、ギリシア語、フランス語に精通した語学の天才にしてはじめて可能なことであった。

その論文は、六千枚以上というあまりにも膨大な量で、弟に手伝ってもらってリヤカーで東京帝国大学に運び込んだ。指導教授の宇井伯寿(うい・はくじゅ、1882~1963)は、思わず「読むのが大変だ」と漏らしたという。

その論文によって、文学博士といえば、70歳、80歳になって受けるものと言われていた当時、30歳の若さで文学博士の学位を取得した。





仏教学の分野では、難解と言われた仏教を、いかに平易で分かりやすいものにするかに努めた。また、神格化され、人間離れしたものとされたゴータマ・ブッダから、歴史上の人物としての「人間ブッダ」の実像に迫り、最初期の仏教の実態を浮き彫りにした。

それによって、仏教は本来、迷信や権威主義とは無縁で、道理にかなったものであったことを明らかにした。インドの釈尊の時代から「2,500年」「5,000キロ」という時空を隔てた今日の日本にあって、”壮大な伝言ゲーム”を経て生じた誤解や曲解を正すことに専念したともいえよう。

中村は、インドの現地を何度も訪れ、インド人の生活、風土、自然などを踏まえ、サンスクリット語や、パーリ語などインドの原典に立ち返って考察した。インドに行こうとも思わなかった西洋のインド学者たちとは全く異なる態度であった。





「中村元選集」(旧版)全23巻の完結で文化勲章を受章したかと思えば、それから11年後には決定版「中村元選集」全40巻の出版に取りかかるというように、とどまることのないあくなき探求の連続であった。

19年がかりで仕上げた200字詰め原稿用紙4万枚が行方不明になっても、不死鳥のごとく作業をやり直して8年がかりで『佛教語大辞典』を完成させ、毎日出版文化賞を受章した。

さらに、その『大辞典』の改訂のためのカード10万枚を残して亡くなり、それをもとに『広説佛教語大辞典』が没後2年にして出版されたことなど、驚嘆すべきことは枚挙にいとまがない。

執筆した著書・論文の数は、分かっているだけでも邦文で1,486点、欧文では論文が284点、著書が10数冊で、計1,480点余というおびただしい数である。





西洋中心・アジア蔑視の偏見と闘い、東西の思想を比較・吟味して普遍的思想史の構築に専念した。それは、異文化間の相互理解と世界平和に欠かせぬことだと思っていたからだ。

これほどの業績と、研究分野が多岐にわたっていることで、妬まれることや、「中村は気が狂ったのではないか」と非難されることも多かったが、偏狭なアカデミズムやセクショナリズム(縄張り意識)と生涯、闘い続けた。

常に「分からないことが学問的なのではなく、だれにでも分かりやすことが学問的なのです」と語り、平易な言葉で仏典を現代語訳し、「人間ブッダ」の実像を浮き彫りにしたことに対して、「厳かさがない」「経典としての荘重さがない」などと非難されたが、中村はこうした言われなき批判とも闘っていた。

「闘う」と言っても、それは仏教でいう「忍辱(にんにく)」の姿勢を貫くもので、中村は、だれに対しても和顔愛語(わげんあいご)であった。





86年の生涯を終え、その告別式で洛子(らくこ)夫人は、「主人は、何よりも好きな勉強を生涯続けられて幸せだったと思います」と語った。

その言葉通り、亡くなる前の昏睡状態が続く中、中村の口から、「ただ今から講義を始めます。体の具合が悪いので、このままで失礼します」という言葉が出てきた。昏睡状態のまま、淡々とした口調で45分にわたって講義し、「時間がまいりましたので、これで終わります。具合が悪いのでこのままで失礼しますが、何か質問はございますか?」と締めくくったという。その講義の最初と最後の言葉は、筆者が長年拝聴してきた東方学院での中村の講義そのままであった。

この昏睡状態での文字通りの”最終講義”の席にいたのは訪問看護の看護師一人であった。専門用語がたくさん出てきて理解できなかったというが、この渾身の”講義”に中村の学問人生のすべてが凝縮されているように思えてならない。





日本は、仏教国だと言われるが、6世紀の仏教伝来以来、漢訳仏典を音読みしてきたため、多くの人が経典に何が書かれているかも分からないままできた。

そのため、仏教が呪術的で迷信じみたものとして、さらには権威主義的に語られることがなかったとは言えない。人々は、本来の仏教の教えを知りたいと思っても、なかなかそれに触れる機会が得られなかった。

中村は、釈尊の生の言葉に近い原始仏典を平易な言葉で現代語訳し、本来の仏教が「真の自己に目覚めること」を目指していたことや、いかに生きるかを説いたものであったこと、釈尊自身が難解な言葉ではなく、平易な言葉で教えを説いていたことを、分かりやすい言葉で明らかにしてくれた。


東日本大震災という未曾有の大災害を目の当たりにして、豊かさの反面、生きることの根底的な意味が問われている今日、真実の仏教を知りたいと思う人たちにとって、中村の業績は時とともにますます輝きを放つであろう。

本書では、中村元の生涯と業績を辿りながら、その思想の「輪郭」と「核心」を明らかにしていきたいと思う。




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仏教学者 中村元 求道のことばと思想 
角川選書 – 2014/7/24 植木 雅俊 (著)

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