2014年4月14日月曜日

人馬一体、”動いて動くものなし”



引用:天狗芸術論


問ふ

何をか動いて動くことなしといふ。

曰く

汝、馬を乗る者を見ずや。

よく乗る者は、馬東西に馳すれども、乗る者の心泰(ゆたか)にして忙しきことなく、形静かにして動くことなし。

ただ、かれが邪気を抑へたるのみにて、馬の性に逆ふことなし。ゆえに人、鞍の上に跨(また)がって馬に主たりといへども、馬これに従って困(くる)しむことなく、自得して往く。馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、精神一体にして相離れず。

これを鞍上に人なく鞍下に馬なしともいふべし。これ動いて動くことなきもの、形に表はれて見やすきものなり。

未熟なる者は、馬の性に逆って我もまた安からず、つねに馬と我と離れて、いさかふゆえに、馬の走るにしたがって五体うごき、心忙しく、馬もまた疲れ苦しむ。ある馬書に、馬の詠みたる歌なりとて、

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり

これ馬に代りてその情を知らせたるものなり。

ただ馬のみにあらず。人を使ふにもこの心あるべし。一切の事物の情に逆ふて、小知を先にする時は、我も忙しく、人も苦しむものなり。





【現代語訳(石井邦夫)】

次のような質問があった。

”動いて動くことなし”とは、一体どのようなことを言っているのであろうか。

次のように答えて言った。

あなた方は乗馬者をよく見るだろう。上手な乗馬者は、馬を東西に走らせても心は安泰でせわしいことはなく、その姿も静かでゆれ動くことがない。外から見れば、馬と人が一体になっているようである。

しかしそれは、ただ彼が自分の邪気を抑えているだけのことで、馬の性質に逆らうことがないのである。それだから、人が鞍の上にまたがって馬の主になっていたとしても、馬はそれに従って苦しむこともなく、納得して走っていくのである。

馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、気持ちが一体になってお互いに離れることがない状態、これを”鞍上に人なく鞍下に馬なし”とでもいうのであろう。これなどは”動いて動くことなし”ということが具体的な形に表れて、わかりやすい例である。

未熟な者は馬の性質に逆らってしまい、自分もまた安泰ではなく、つねに馬と自分の気持ちが離れて、争ってしまうために、馬が走るにしたがって身体が揺れ動き、心がせわしくなり、馬もまた疲れて苦しむのである。

ある馬術書に、馬が詠んだ歌として、次の和歌がある。

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり
(集中して走り込もうとすると引き止められ、手綱が口にかかって前に行かれないんだ)

これは馬に代わって馬の気持ちを伝えたものである。

ただ馬だけではない。人を使う場合にも、このような気持ちはあるであろう。一切の物事の状況に逆らって小賢しい知恵を先に働かせてしまうような場合は、自分でもせわしなく、他人も困らせてしまうものである。





 引用:天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)

0 件のコメント:

コメントを投稿