2014年4月9日水曜日

「点の思想家」 鈴木大拙


話:増田文雄


 たとえば、先ほど申しました田辺元先生が、どこかで批評をされましたときに、その弟子の北森嘉蔵という、これはキリスト教神学の日本の第一人者でありますが、うまい書き方をいたしました。

 田辺元という人がこういう思想家だということを、ズバリと書いたのです。それは「間の哲学者」であるという批評をしました。

 だいたい田辺元という人は、もとは理学部のほうを専門にやってこられた。そうして哲学のほうにやってきて、哲学者になったのであります(理学と哲学というのは、じつは近いのですけれでも)。そうすると田辺先生に一番はじめの問題はなにかというと、自然科学と哲学、そこの”間”でものを考える。それからいろいろな”間”でものを考える。自然科学と哲学、それから仏教に入ってまいりました。最後には、戦争と哲学、国家の地域と哲学と、いつも”間”で考えている。

 お釈迦さんの頭をみていきますと、第一に縁起というものを一番はじめにつかまえた。縁起は関係なのです。線で、これとこれとの関係はこうだという。だから、お釈迦様は「線の思想家」なのだと考えているのであります。



 なかには、いま申した柳宗悦先生のものなど読んでおりますと、あれは「否定の哲学」だ。「否定の思想家」だ。

 はじめにあの人はキリスト教をやりました。神を追求している。それからブレークをやり、朝鮮の美術をやり、日本の美術に帰ってくる。これを全部やり、これでもない、これでもない、これでもない、そうするとこれしかないじゃないかと、あの民芸にきました。そして美が民芸のなかにあるというのは、いったいどういうことであるかと、最後に一生懸命考えた。

 そうして民芸というのは、”成仏しようと思わないで成仏しておるのが、民芸ではないか”と言っていた。あるとき柳宗悦先生はわたしに、「ああ成仏しよう成仏しよう、悟ろう悟ろうという者は悟れくて、とても私には悟れないなどと、悟ろうなどという気持ちを全部捨ててしまった者が悟ってしまった。それですよ」と言われた。

 柳宗悦先生の文章を気をつけてずっと読むと、何々にあらず、何々にあらず、何々にあらずといった調子です。これはずっと否定して、いわゆる、クロス・アウトとしていって、そして最後に残ったものをとらえる、こういう思想家であります。






 いったい鈴木大拙という人は、どういう思想家だろうか。

 よく鈴木大拙のものには”体系がない”というようなことをいう人があるのであります。おもしろいことに、体系がないということで、西田幾多郎先生の『善の研究』の英文の序文に、西田幾多郎が、もう少しおまえも体系的にやれと私にいったというようなことを、鈴木先生がちょっと書いているのです。

 それからあるとき、先生にわたしは質問をしてみたのです。「先生の仕事には体系がないですね」といったら、「うん、そうだ。わたしは体系家じゃないよ」と、こういうのです。あとで考えてみると、つまらない質問をしたと思っておりますが、鈴木大拙の仕事というものの本質をつかまえてみると、それは、体系のなかで組み上げようなどというのは、その仕事の本質に反しておることなのでありまして、それだから先生が堂々と、おれは体系家じゃない、というのは当たり前の話だということに気がついたのです。

 そこで私は、それでは先生はどう考えますかといったら、「わしは何か一つつかまえると、そこから一点だけだんだん掘っていく。これはと思うものをパッとつかむと、ずっと掘り下げ、掘り下げ…」。錐(きり)みたいですねといったら、「錐よりは太いだろうね…。それじゃあドリルかなにかで穴を掘る井戸掘りみたいなものだな」と言ったのです。

 ”間”とか”線”とかいう言葉ですと、これは「点の思想家」だと私は考えております。そうして、これは表現はいかにあろうと、体系家でもなく、間で考える人でもなく、否定の哲学者でもなく、一点を掘り下げる哲学者であるのです。



 鈴木先生はたとえば、「わしの考えによると」というような文章の書きはじめかたを、よくやるのです。

 一番はじめに「according to my way of...」、こうくるのです。初めからポンと、私はこうみるのだよというわけですから、人がどうみようと、大乗諸家がどうみようと、そういうことは平気なのです。わしがみるとこう…。穴だけ掘っていくのですから、わしの見方はこうだ、というのが一番はじめに出てくる。

 私どもは、文献により仏陀が悟ったときはこうだったというような、その前後の歴史をずっと集めて描き出すのですが、鈴木先生はそんなやり方は絶対にしないで、「もしその時、わたしが仏陀のそばに立っておったとするならば…」と、その時にそこに立っておって、そうして仏陀という人の存在をじっと上からのぞいたらどんなものだったろうと、こういうのです。





引用:「鈴木大拙論」増田文雄


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