2014年4月11日金曜日

欧陽詢の、醜い容貌と整斉たる書


引用:臨書を楽しむ〈1〉欧陽詢 九成宮醴泉銘





 欧陽詢(おうよう・じゅん)の風態から想起されたと思われる話で、『太平広記』に収録されている「補江総白猿伝」という欧陽紇(こつ)・詢(じゅん)親子にまつわる伝奇小説があります。

 大勢の婦人を山奥へさらうという人間離れした膂力と学識をもった白猿(神)が、欧陽紇の妻をさらって自らの妻妾とします。紇は、奪われた妻を捜して白猿の住処にたどり着き、婦人たちと策略を練って白猿を殺すのですが、そのとき妻は白猿の子を身籠っており、それが欧陽詢だというのです。

 これは、欧陽詢の顔が猿に似ているのを後人が嘲り誹謗するために書かれたものとされていますが、別の観点でみれば、逆説的に彼の人間離れして秀でた一面を、白猿の子供とすることで称揚したものとも考えられます。



 欧陽詢は名臣として、また書家としてつとに名が知られています。しかしその事跡についての記述が、じつはほとんどありません。『旧唐書』『新唐書』にわずかに伝えるのみです。

 欧陽詢の父・紇は、陳の広州刺史として仕えていましたが、謀反の兵を挙げ誅されました。本来なら、息子である詢も連座して罪にしたがうべきところを辛くも免れ、父の友人である江総(こうそう)に引き取られました。彼は陳では登用されなかったものの、随の時代に太常博士(儀礼官)となります。

 随の碑や墓誌銘、経文などには、北朝の険峻な古法と、南朝の洗練された感覚が融合された、美しい楷書の名品が数多くあります。当然、彼もそれらの文字を目の当たりにし、少なからず影響を受けたことでしょう。欧陽詢が60歳を越してから唐に仕えたことを考えると、彼の整斉として独特の厳しさをもつ楷書は、この時期に養われ昇華されたものでしょう。

 その後、唐の高祖が即位すると、給事中(皇帝の側近)に抜擢されます。太宗の治世で太子卒更令、弘文館学士に任じられたのち、渤海県の男爵に封ぜられました。



 こうした略歴のほかに、彼の面容について、正史では「貌はなはだ寝陋」とあります。「寝陋(しんろう)」とは、醜い容貌のことです。

 正史はさらに、高祖が高麗では欧陽詢の書が重んじられ、使者を派遣してまでこれが求められている、ということを聞くと「欧陽詢の書名が遠く夷狄の地に伝わっているとは思いもよらなかった。彼の筆跡を見るに、まったく彼の容貌など想像もできないだろうに」と感嘆した、と続きます。

 冒頭でご紹介したような小説の題材となったり、高祖が嘆息するほど、きっと彼の容姿は醜かったのでしょう。しかしまた、このような逸話が残るということは、それだけ彼の聡明さと書の美しさが、容貌に反して際立っていたということを、世の人々が強く認識していたということでしょう。







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