2014年4月17日木曜日

ねずみ小僧の話 [木村荘八]



話:木村荘八


 …小汚い右手の渡廊下の奥の奥に、例の治郎太夫、鼠小僧の墓が——そう言ってはこの侠盗の故人に気の毒ながら、まず外後架といった、むさくるしい感じに、辛くも残存するのを見た。しかし、この墓の囲いに使われている鉄柵は、今になって見ると、珍重すべき明治美術品の断片である。

 八丁堀無宿治郎太夫こと、次郎吉、天保年間の書きものの小書きに「深川辺徘徊博奕渡世致居候」とある名物男で、泉町の生まれであったから、いづみ小僧といったのを、動作が敏捷だったので「ねずみ小僧」と転訛したものだろうとう説は、正しいかどうか。なんでも二十九の頃から「盗賊相働き屋敷方奥向並長局金蔵等に忍入り」というから、今の大衆ものの本家である。

 「大名は九十五カ所右のうち三四度も忍び入候処も有りの由」それで結局「〆八十軒ほどは荒増覚居候由、このこと限り無御座候この金高三千二百両ほど」。

 そして、その商家大名から盗んだ金は貧民に分けたといふのだが、天保三年に捕まったときの、筒井伊賀守組同心相場半左衛門…か誰かに取られた調べ書きでは、その金を自分で「盗金は悪所さかり場にてつかい捨候」と自供したというのである。連累が貧民に及んではいけないので、みな自分でかぶったという。

 三千二百両はやはりそのとき自供した盗金の金高であるが、じつはおよそ一万二千両ほどに及んだだろうという。現在の金に換算したらどのくらいの金高になるだろう。

「右次郎吉吟味相済八月十九日引廻しのうえ、小塚原にて獄門に相成候」

 次郎吉は大盗であるが、しかし当時は盗られる方にも器量があったとみえて、ある大名の奥方の寝所に忍び込んだときに、彼が奥方の手文庫を盗んで今立ち去ろうとすると、寝ていた奥方が静かに床の中から声をかけて「後を閉めて行けよ」といわれた。これには次郎太夫のほうが参ったということである。





引用:木村荘八「両国今昔








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