2015年4月15日水曜日

シンガポールの「3年8カ月」 [日本占領時代]



話:岩崎育夫





 シンガポールでは、日本占領期を「3年8カ月」と呼ぶのが一般的である。日本占領時代は、日本軍がシンガポールを占領した1942年2月2日から、日本の敗戦で占領支配が終えた1945年8月までである。

 なぜ、日本は南方の小さな島に過ぎないシンガポールに触手を伸ばしたのだろうか。






 1937年に宣戦布告なき日中戦争を開始して、北京や上海や香港など中国沿海部を実質的に占領下におくと、次の目標地は、天然資源や一次産品が豊富な東南アジア、とりわけ、インドネシアやマレーシアとなった。

 ただ、そのためにはシンガポールのイギリス軍事基地が邪魔な存在であった。イギリスはアジアのイギリス植民地、貿易ネットワーク、さらにはオーストラリアやニュージーランドのイギリス連邦諸国を日本から護るために、シンガポールに軍事基地を築いていたからである。

 1920年代に、シンガポール島北岸に戦艦や駆逐艦などを常備できる巨大海軍基地の建設がはじまり、1938年に造船ドックを含む最新設備を備えた軍港が完成した。シンガポール島北部の3カ所には飛行場も建設された。イギリスは、日本がシンガポール島南岸から攻撃してくると予想し、セントサ島など南部に巨大な大砲も配置している。これら一連の施設の構築により、自由貿易港シンガポールは世界有数の軍港、それに3つの軍事飛行場と大砲を備えた堅固な軍事要塞と化していたのである。






 イギリスの予想に反して、日本は南からではなく北からシンガポールを攻撃した。

 第二次世界大戦への日本の参戦は、1941年12月8日、日本の爆撃機がアメリカ・ハワイの真珠湾に停泊中のアメリカ戦艦を奇襲することで始まったとされることが多いが、実際には、それよりも一時間ほど前に、マレー半島の南シナ海に面したタイ南部の町パタニ、それにマレーシア北東部の町コタバルの海岸に日本軍は上陸し、同時にシンガポールの空港を空爆していた。

 コタバル上陸から2日後の12月10日には、アジアにおけるイギリス海軍の守護神とされていた、軍艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」号を、マレー半島東海岸のクアンタン沖で撃沈させて制海権を奪う。開戦直後から制空権を日本が握っていたため、マレー半島に上陸した日本軍部隊は、さしたる抵抗を受けることなく、二手に分かれてマレー半島の東海岸と西海岸を南下し、2カ月ほどでマレー半島全域を占領した。1942年1月31日には、シンガポールとはジョホール水道で隔たったジョホール・バルーの王宮に陣を構えたのである。






 日本は、一週間でシンガポール総攻撃体制を整えると、1942年2月8日に攻撃を開始した。日本軍は12万人、守るイギリス軍(イギリス軍、インド軍、オーストラリア軍などの混成軍)は9万人の兵力であった。シンガポール島のほぼ中央に位置する唯一の高地で、イギリス軍の弾薬や食糧の貯蔵所があったブキッティマ(丘)の攻防をめぐって激戦が展開された末に、2月14日に日本軍が市街地を包囲すると、食糧や弾丸が尽きたイギリス軍は翌15日に無条件降伏した。

 一週間の戦闘でシンガポールは日本軍の手に落ち、シンガポール島南部に配置した大砲は無用の長物と化したのである。

 降伏の調印式は、同日(2月15日)にブキッティマの一角フォード自動車工場で行われた。この年の2月15日は、中国人住民にとり一年で最も楽しい旧正月(チャイニーズ・ニューイヤー)だったが、悲惨な「3年8カ月」のはじまりとなったのである。










引用:岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史 (中公新書)



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