話:鈴木大拙
禅は活人剣と殺人刀ということを語る。そのいずれを、いついかなる風に、使うべきかを知るのは、すぐれた禅匠の働きである。
文殊菩薩は、右手に剣を、左手に経典をもつ。しかし、文殊菩薩の聖なる剣は、生きものを殺すためではなくて、われわれ自身の貪欲・瞋恚(しんに)・愚癡を殺すためである。それはわれわれに向かって擬せられる。こうするのは、われわれの内部にあるものの反映であるところの外界の世界もまた、貪欲・瞋恚・愚癡から自由にされるからである。
不動明王もまた剣をもって、仏徳の流行をはばむ一切の敵を滅さんとする。文殊は積極的で、不動は消極的である。不動の憤怒は火のごとく燃え、敵の最後の陣営を焼き尽くすまでは消えない。
しかる後にふたたび元の容相をとり、彼がその侍者であり、示顕であるところの盧遮那仏(るしゃなぶつ)となる。盧遮那仏は剣を持たぬ。彼は剣そのもので、その内に全世界を容れつつ、寂然として不動なのである。
つぎの「一剣」問答が、これを意味する。楠木正成が湊川で足利尊氏の大軍を迎えようとしたとき、兵庫のある禅院にきて和尚に尋ねた。
「生死交謝のとき如何(人が生死の岐路に立った時は、いかにしたらいいでしょうか)」
和尚が答えた。「両頭ともに裁断すれば、一剣天に倚って寒し(お前の二元論を断切れ。一本の剣だけを静かに天に向かって立たせよ)」
この絶対的な「一剣」は、生の剣でも死の剣でもない。そこから二元の世界が生じ、また、そこにおいて生死一切がその存在をもつところの、剣である。それは盧遮那仏自体である。これを把握するならば、路の岐れるところにおいて、いかに振る舞うべきかを知るのである。
剣は、いまや、宗教的直観の力や直進をあらわす。この直観は智力とは異なり、分離してそれ自身の通路を塞いでしまうようなことはない。うしろもわきも顧みないで前へ進む。
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引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書) 』 第四章 禅と剣道
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