2015年7月15日水曜日
山岡鉄舟と西郷隆盛
〜話:行徳哲男〜
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ピーター・ドラッカーは日本民族こそ「世界最強の”問題処理民族”である」と言っている。日本民族は大化改新、応仁の乱、蒙古襲来、明治維新、第二次世界大戦、オイルショックなどさまざまな国難をことごとく乗り切ってきたのだ、と。
ドラッカーは明治維新を称えてこう言う。「明治維新は人類がなした最高の奇跡である」と。明治維新はなぜ”維新”であって革命ではないのか。革命とは火と血がともなうものだが、維新には一条の炎も燃えず、一滴の血も流れなかった。まさに無血革命という奇跡が明治維新なのである。
江戸城の無血開城といえば勝海舟と西郷隆盛が主役だが、幕府方の使者として命懸けで敵陣を突破して駿府に赴き、西郷を涙ながらにかき口説いて江戸攻めをやめさせた「山岡鉄舟」の存在も忘れてはならない。鉄舟がいなければ間違いなく江戸は火の海になっていた。そうなれば、日本は戦乱に乗じた外国勢力の植民地となっていたであろう。まさに西郷と鉄舟の会談こそ、日本の一大転換点であったのだ。
本陣で西郷と面談した山岡は「官軍は無理無体に人民を殺すのですか」と迫る。「朝敵を討つためだ」と答える西郷に、山岡は「江戸には朝敵など一人もおりません」と食ってかかる。「徳川慶喜がおるじゃないか!」「徳川慶喜は恭順の者でございます」「恭順の誠が見えぬ!」「それはあなたが耳を覆い目をふさいでいるからだ」。火花を散らす会話が続き、ついに「今さら退けぬわ」と西郷が山岡をはね返すと、「不忠だ、西郷殿、日本一の逆賊になりますぞ」と山岡は叫ぶ。しばしの睨み合いののち、西郷は山岡に問う。
「敵陣深く一人で乗り込んできて、その場で斬られたらどうするつもりだった」。
答えて山岡、
「もとより覚悟の上」
この一言を聞いて、西郷は江戸攻めの中止を決める。覚悟ある人間同士が交わった瞬間である。
江戸攻めを中止するために総督府は五ヶ条の命令を出す。その最後の一ヶ条を山岡は承服しない。それは「徳川慶喜を備前藩に預ける」という条文であった。大恩ある主君を敵藩に監禁させるなどできないというのが拒絶の理由であった。対立は平行線を描き、西郷は席を立とうとする。そこで山岡は涙ながらに訴えるのである。
「西郷先生、仮にあなたの御主君の島津公が朝敵の汚名を着せられ、その汚名をそそぐ方法がないまま、朝命によって敵藩に差し出せと迫られたら、先生は平気で島津公を人質としてお出しになりますか」
西郷は涙ながらの一言に胸打たれた。そして、自らも目に涙を浮かべながら、「慶喜公のことは自分が万事引き受けましょう」と申し出る。この涙の場面が日本の夜明けをもたらしたと言っても過言ではない。
西郷は山岡鉄舟をこう評したという。
「徳川公は偉い宝をお持ちだ。山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。金もいらぬ名誉もいらぬ、命もいらぬといった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に日本の大事を誓い合うわけにはまいりません。本当に無我無私、大我大欲の人物とは、山岡さんのごとき人でしょう」と。
西郷の推挙により明治天皇の侍従となった山岡は、西洋のものを何でも取り入れようとする明治天皇を諌めた。激怒した天皇は山岡と「相撲で決着をつけよう」と言い、巨漢の山岡に土俵に叩きつけられてしまう。憤然として自室に戻る天皇を見て、誰もが山岡にお沙汰が下るものと思った。山岡もまた、それを覚悟し、一晩中廊下で禅を組んだ。しかし、気を鎮めた天皇は「鉄舟こそ本当の忠臣だ」として、何もとがめをせず、逆に侍従長に抜擢した。
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引用:行徳哲男『感奮語録』
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