2015年4月15日水曜日

シンガポールの「バナナ紙幣」と粛清と [日本占領下]



岩崎育夫
物語 シンガポールの歴史 (中公新書) 』より





 日本はシンガポール島を占領後、「昭南島(昭和の時代に得た南の島、の意)」と称し、シンガポール市を「昭南特別市」に改名した。初代市長は、内務次官でのちに内相となる大達茂雄である。

 占領から一週間後には、日本の『昭南新聞』が刊行され、また海峡ドル(旧イギリス植民地で使われていた通貨)に替えて日本の軍票紙幣が発行されたが、10ドル紙幣にバナナの絵があったので、住民は「バナナ紙幣」と呼んだ。



 祝日も天皇制を軸にした制度が導入され、占領直後の混乱が収まると学校も再開されたが、授業の大半が日本語の学習に当てられ、生徒は毎朝、日本の皇居の方角に向かって拝礼させられ、君が代を歌わされた。

 日本化政策のシンボルとも言えるのが、1942年末に島のほぼ中央部に位置するマックリッチー貯水池脇に、伊勢神宮を模して建てられた「昭南神社」であった。神社には日本人が参拝しただけでなく、シンガポール住民(イスラム教徒のマレー人なども)参拝を強いられた。

 日本は、東アジアの台湾や韓国の植民地で日本化政策を採ったが、同じことを、日本や東アジアとは違う宗教文化をもつシンガポールでも行ったのである。その目的は、シンガポールがイギリス支配の下で欧化されていたので、それを除去して、新たに日本文化でシンガポールを創り替え、東アジアの植民地と東南アジア・太平洋地域の占領地からなる「大東亜共栄圏」の日本文化の拠点にしようと目論んだからだった。

 イギリスはシンガポールを東南アジアにおける貿易と軍事拠点にしたが、日本は「文化拠点」にしようとしたのである。






 日本統治下でシンガポール住民は息苦しい生活を強いられたが、とりわけ2つの出来事が住民を苦しめた。

 一つは、憲兵隊による恐怖政治である。憲兵隊本部は、シンガポール川河口近くのエンプレス・プレイスと呼ばれるイギリス植民地政府の建物に置かれ、一部の中国人(台湾人など)をスパイに雇い、密告組織を通じて住民を厳しく監視・管理し、命令に従わない者には容赦ない体罰を与えた。

 それを示す一つのエピソードが、1942年7月に、混乱に乗じて軍用倉庫に盗みに入った住民8人を軍事法廷で死刑に処した後、シンガポールで最も人通りの多いオーチャード通りに面したキャセイビル前に彼らの首を並べて、日本軍への抵抗や不服従の見せしめにしたことである。

 もう一つは、経済生活の大混乱である。第二次世界大戦前のシンガポールの住民数は50万人ほどだったが、日本がマレー半島各地を攻撃すると、戦火を逃れて多くの人々がシンガポールに避難したため、日本の占領時には、住民数は2倍の100万人に膨れ上がっていた。戦時下ではどの国も混乱に陥り、食料や生活物資が不足して住民は苦しい生活を強いられるが、特にシンガポールはそうであった。シンガポールは食糧品や日常生活品のほとんどを外国からの輸入に頼っていたが、戦争と占領により貿易が途絶えたからである。

 そのため、住民はシンガポールにある限られた生活物資を入手するしかなく、日本軍発行のバナナ紙幣が大量に印刷・発行されたこともあり、高インフレを招いた。たとえば、占領年の1942年12月に、米は0.6kgが50セントだったが、日本占領が終えた1945年には75ドルと150倍に、卵一個も、10セントから35ドルと350倍にも値上がりしていた。このエピソードは、日本統治下の住民生活の苦しさをよく物語っている。






 中国人の粛清も記さなければならない。

 占領直後の1942年2月18日、日本軍は治安確保のためと称し、市内数カ所に18〜50歳の中国人男性全員に、数日間の食糧を持参して集まることを命じた。日本軍は1930年代に中国を攻撃した際、中国側の抵抗に遭い苦戦を強いられたが、その一因はシンガポールなどの移民中国人の支援活動があったと考えており、反日主義者、共産主義者、イギリス協力者(その基準の一つが英語が話せること)などを見つけ出し、処罰しようとしたのである。

 検問所では、60万人を超える中国人が3日間にわたって、憲兵隊により一人ひとり検証され、反日でないとみなされた者は帰宅を許されたが、反日主義者や共産主義者などとされた者は、そのままトラックで連行された。行先は、シンガポール島東海岸や、現在、観光地として人気のあるセントサ島(当時ブラカンマティ島[死の島]と呼ばれた)などで、海岸に大きな穴を掘らせた後に、機関銃などで銃殺したのである。これが現在もシンガポール華人の間で、日本軍による大粛清として怨嗟と非難の的となっている虐殺である(日本側の証言によれば犠牲者は5,000〜6,000人、それに対して虐殺を追求する側は4〜5万人の数字をあげている)。

 のちにシンガポールの首相になるリー・クワンユー(当時18歳)も検証を受けた一人で、容疑者の列に行くように命じられたが、機転を利かせて自宅に逃げ戻り難を逃れたという。これは、歴史におけるif(もしも)の話だが、もし、リーがこのときに粛清の犠牲になっていたならば、その後のシンガポールの歴史は完全に違うものになっていただろう。






 日本支配の「3年8カ月」は、シンガポール住民に深い心の傷を残したが、1945年8月にようやく終える。日本の敗戦とともに、日本支配の象徴だった昭南神社は日本人の手で爆破され、日本占領の痕跡は、表面上は消えた。

 しかし、だいぶ時間が経過した後に現れた痕跡もあった。1962年に自治政府が公共住宅建設のために、シンガポールの東海岸一帯の土地を整地すると、大量の白骨が出土する。これは、日本が占領直後におこなった中国人粛清の犠牲者の遺骨で、激怒した華人住民の間で、日本に賠償を求める運動が起こった。これは法律だけの問題ではなく、民族の血をめぐる問題である。華人社会を中心に「血債問題」として大きな政治問題になった。



 シンガポール住民の目からすると、日本はイギリスに次ぐ二番目の支配者だが、イギリスと日本に対する受け止め方はきわめて対照的である。

 イギリスは、1819年から第二次世界大戦後の1963年まで約140年間にわたりシンガポールを支配した。しかし、多くのシンガポール人は、イギリス支配を恨むどころか、誤解を恐れずに言えば、評価している。ジャングルに覆われた一寒村に過ぎなかったシンガポールが、イギリス植民地となったことで世界史に登場し、中継貿易基地として発展したことで、祖先たちがシンガポールに移民して自分たちの生活の基盤が築かれたからである。また、イギリスは、法制度や教育制度など現代シンガポールの基本的制度を整え、これによりシンガポールが近代的な国となる。「イギリスによって今日のシンガポールがある」と多くの人が受け止めているのである。

 これに対して、日本の占領は「3年8カ月」と短期間だが、苦しく苦い経験しか残っていない。何よりも、住民の目には、日本はアジアを欧米諸国の支配から解放すると言いながら、中国人を容赦なく弾圧し、経済や社会分野でも有益な制度を残すことなく、ただ住民の生活と社会秩序を破壊したに過ぎなかったと映るからである。






 しかし、日本の占領支配がシンガポールの歴史、とりわけ独立に何の意義ももたなかったわけではない。これは日本がまったく意図しなかったことだが、日本占領時代は住民に

「シンガポールを支配・統治する権利をもつのは一体誰なのか?」

という問題を考える機会をつくり、一部の人々が解答を得たからである。

 日本がシンガポールを攻撃した時、イギリスが住民を守ってくれると考えていたが、実際には、イギリス人(民間人)だけが安全な場所に避難し、シンガポール住民を置き去りにした。日本がイギリス支配を崩壊させて、住民にイギリス支配が絶対的なものではないことを認識させたのである。イギリス支配は半永久的なものと受け止めていたが、日本軍に敗れ捕虜として命令されるイギリス兵士の姿を目撃して、彼らが絶対的存在ではないことを知ったのである。

 日本占領を、身をもって体験したリー・クワンユー(のちのシンガポール首相)は、次のように述懐している。

 私と同世代の仲間は、第二次世界大戦と日本占領を経験した若い世代である。この過程で、われわれを乱暴に粗末に扱うイギリス人も日本人も、われわれを支配する権利をもっていないことを確信した。われわれは自分の国は自分たちで統治し、自尊心をもった国として子どもたちを育てることを固く決心したのである(History of Modern Singapore)。










引用:岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史 (中公新書)



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