2013年10月29日火曜日

上杉謙信と禅 [鈴木大拙]



話:鈴木大拙



上杉謙信と武田信玄とは、日本が戦国時代にあった16世紀の二名将であった。2人はその領地が相接していたので、一般にならび称せられ、彼らは幾度かその優越を争わねばならなかった。彼らは武人としても支配者としても、相伯仲した。

また、禅を学ぶ点でも同じであった。彼らは若いとき禅院で教育をうけ、中年にして剃髪して入道を称した(謙信は仏教僧侶と同様に肉食妻帯をしなかった)。謙信の俗名は輝虎、信玄は晴信である。が、法名のほうが知られている。

謙信はかつて、信玄が領民のための塩の欠乏にいたく悩んでいるのを知った時、寛大にも自分の領地からその必要な物資を敵に供給した(日本海に臨んでいるので越後は塩を十分産した)。



川中島の対陣戦の一つでは、謙信は敵の出方の遅いのに業を煮やして、一挙に勝敗を決せんものと単身、信玄の陣に乗り込んだ。謙信は敵将が数人の幕下とともに悠然と椅子に腰掛けているのを見るや、剣を抜いて信玄の頭上真向から斬りつけて、

「いかなるかこれ剣刃上の事」と禅問を発した。

信玄は少しも騒がず、そのとき彼の手にしていた鉄扇で襲いくる武器をかわして、

「紅炉上一点の雪」と答えたという。



謙信は僧・益翁のもとで熱心に禅を学んだ。師僧はつねに彼にこう言った。

「あなたが真に禅を会得せんと欲せるるならば、命を捨てて直下に死の穴に飛び込むことが必要です」

謙信はのちに彼の家臣たちに次のような訓戒をのこした。

「生を必する者は死し、死を必する者は生く。要はただ心志の如何にあり。よくこの心を得て、守持するところ堅ければ、火に入りて焼けず、水に陥って溺れず、なんぞ生死に関せんや。予、つねにこの理を明らかにして三昧に入れり。生を惜しみ死を厭うがごときは、いまだ武士の心胆にあらず」

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