2015年10月23日金曜日

年号も知らぬ神様[渋沢栄一]







修験者の失敗


余が十五歳の時であった。自分には一人の姉が脳を患って発狂し、二十歳といふ娘盛り(むすめざかり)でありながら、婦人にあるまじき暴言暴行を敢(あへ)てし、狂態が甚(はなは)だ強かったので、両親も余も之を非常に心配した。

兎に角(とにかく)女のことであるから、他の男に其の世話はさせられぬ。余は心狂へる姉の後ろに附随して歩き、様々に悪口されながらも、心よりの心配に駆られて能(よ)く世話をしてやったので、その頃近所の人々の褒め者(ほめもの)であった。

(しか)るに此(こ)の心配は独り一家内の上ばかりでなく、親戚の人々も等しく憂慮して呉(く)れたが、中にも父の実家なる宗助(そうすけ)の母親は大の迷信家であったので、「此の病気は家の祟(たたり)のある為であるかも知れむから、祈祷するが宜(よ)い」と頻(しき)りに勧誘したけれども、父は迷信が大嫌ひで、容易に聞入れなかったが、その中(うち)に姉を伴(つ)れて転地保養かがたが上野(かうつけ)の室田(むろた)といふ所へ行かれた。此の室田(むろた)といふ所は有名の大瀧がある所で、病人を其の瀧に打たすれば宜(よ)いとのことであった。

しかるに父の分(で)た後、母はとうとう宗助の母親に説き伏せられ、父の留守中に家にあるといふ祟(たたり)を払ふため、遠加美 講(とほかみかう)といふものを招いて御祈祷することになった。余も父と同じく少年時代より迷信をひどく嫌ったので、其の時極力反対したけれども、未(ま)だ十五歳の子供の悲しさ、一言(いちごん)の下(もと)に伯母なぞにしかりつけられて、余が説は通らない。



さて両三人の修験者が来て其の用意に掛(かか)ったが、中座(なかざ)といへる者が必要なので、その役には近い頃家に雇入れた飯炊女(めしたきおんな)を立てることになった。而(さう)して室内には注連(しめ)を張り、御幣(ごへい)などを立てて厳(おごそ)かに飾りつけをし、中座(なかざ)の女は目を隠して、御幣(ごへい)を持って端座(たんざ)して居(お)る。

その前で修験者は色々の呪文(じゅもん)を唱へ、列座の講中信者(かうちゅうしんじゃ)などは、大勢して異口同調に遠加美(とほかみ)といふ経文体(きゃうもんたい)のものを高声(かうせい)に唱へると、中座(なかざ)の女、初めの程(ほど)は眠って居るやうであったが、何時(いつ)かは知らず持って居(お)る御幣(ごへい)を振立てた。この有様(ありさま)を見た修験者は、直(ただ)ちに中座(なかざ)の目隠(めかくし)を取って、其の前に平身低頭し

「何(いづ)れの神様が御臨降(ごりんかう)であるか、御告(おつげ)を蒙(かうむ)りたい」

などと曰(い)ひ、それから

「当家の病人に就(つい)て何等(なんら)の祟(たたり)がありますか、何卒(どうぞ)お知らせ下さい」

と願った。すると中座(なかざ)の飯炊女(めしたきおんな)めが如何(いか)にも真面目くさって、

「此(こ)の家には金神(こんじん)と井戸の神が祟(たた)る。又(また)この家には無縁仏(むえんぼとけ)があって、それが祟(たたり)をするのだ」

と、さも横柄に曰(い)ひ放った。



それを聞いた人々の中でも、別(べつ)して初めに祈祷を勧誘した宗助(そうすけ)の母親は得たり顔(えがりがほ)になって、

「それ御覧(ごらん)、神様の御告(おつげ)は確かなものだ。成る程(なるほど)老人(としより)の話に、何時(いつ)の頃か、此(こ)の家から伊勢神宮に出立して其れ限(き)り帰宅せぬ人がある。定(さだ)めし途中で病死したのであらうと云ふことを聞いて居たが、今御告(おつげ)の無縁仏(むえんぼとけ)の祟(たたり)といふのは、果たして此の人に相違あるまい。どうも神様は明らかなものだ。実に有難(ありがた)い」

と曰(い)って喜び、而(さう)して此の祟(たたり)を清めるには如何(どう)したら宜(よ)からうと謂(い)ふ所から、復(ま)た中座(なかざ)に伺って見ると、

「それは祠(ほこら)を建立して祀(まつ)りをするが宜(よ)い」

と曰(い)った。



全体、余は最初から此事(このこと)には反対であったので、いよいよ祈祷するに就(つい)ては、何か疑はしき所でも有ったらばと思って始終注目して居たが、今無縁仏(むえんぼとけ)と曰(い)ったに就(つい)て、

「其の無縁仏の出た時は、凡(およ)そ何年程前の事でありませうか。祠(ほこら)を建てるにも碑を建てるにも、その時代が知れなければ困ります」

と言ったら、修験者は重ねて中座(なかざ)に伺(うかが)った。すると中座は、

「凡(およ)そ五、六十年以前である」

というたので、又(また)押返して

「五、六十年以前なら、何といふ年号の頃でありますか」

と尋ねたら、中座(なかざ)

「天保(てんぽう)三年の頃である」

と曰(い)った。



(ところ)が、天保三年は今より二十三年前の事であるから、其所(そこ)で余は修験者に向ひ、

「只今(ただいま)御聞きの通り、無縁仏(むえんぼとけ)の有無が明らかに知れる位の神様が、年号を知らぬといふ訳(わけ)はない筈(はず)のことだ。斯様(かう)いふ間違(まちがい)があるやうでは、まるで信仰も何も出来るものぢゃない。果たして霊妙に通ずる神様なら、年号ぐらゐ(い)は立派に御解(わか)りにならねばならぬ。然(しか)るに此(こ)の見易(みやす)き年号すらも誤(あやま)る程では、所詮(しょせん)取るに足らぬものであらう」

と詰問(きつもん)の矢を放った。宗助(そうすけ)の母親は横合(よこあひ)から

「其様(そのよう)なことを言ふと神罰が当る」

といふ一言(いちごん)を以(もっ)て自分の言葉を遮(さへぎ)ったが、これは明白の道理で、誰にも能(よ)く解った話だから、自然と満座(まんざ)の人々も興を冷まして修験者の顔を見詰めた。

修験者も間が悪くなったと見えて、

「是(これ)は何でも野狐(のぎつね)が来たのであらう」

と言ひ抜けた。



野狐(のぎつね)といふことなら、猶更(なほさら)(ほこら)を建てるの祀(まつ)りをするのといふことは不用だといふので、詰(つま)り何事もせずに止(や)めることになった。

それゆゑ(え)修験者は自分の顔を見て、

「さてさて、悪い少年だ」

と曰(い)はぬばかりの顔付(かほつき)で睨(にら)まへた。

私は勝誇りたる会心の笑(えみ)を禁ずることが出来なかった。



それぎり宗助の母親はぷッつり加持祈祷(かじきとう)といふことを廃(や)めて了(しま)った。

村内の人々は此事(このこと)を伝へ聞いて、以来「修験者の類を村には入れまい」「迷信は打破すべきものぞ」といふ覚悟を有(も)つようになった。







出典:渋沢栄一『論語と算盤



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