2015年10月26日月曜日

平安貴族と『史記』



名高良史籍

名は高し 良史(りょうし)の籍(せき)

身毀妬臣年

身は毀(こぼ)たる 妬臣(としん)の年

㬢魄懸声値

㬢魄(ぎはく)声値(せいか)に懸(かか)

爰言陵谷遷

(ここ)に陵谷(りょうこく)の遷(うつ)るを言う



すぐれた史官が編纂した典籍として『史記(しき)』の名声は高い。
ある年に嫉妬深い重臣の讒言(ざんげん)で、司馬遷(しばせん)の肉体はそこなわれたが
今では輝かしい日月の光が、その評価の上に降り注いでいる。
丘陵と渓谷とが移り変わるように、汚名も名誉に変わったのだ。


史記 ビギナーズ・クラシックス「はじめに」より〜


これは平安時代の初期、嵯峨(さが)天皇の弘仁五年(814)に成立した『凌雲集(りょううんしゅう)(日本最初の勅撰漢詩集)に収められた、賀陽豊年(かやのとよとし)「史記の竟宴(きょうえん)にして、賦(ふ)して太史公(たいしこう)が自序伝を得たり」という漢詩の末尾四句です。

当時の日本は、中国文化を摂取して国家の体制を整えることを急務とし、その一環として官人たちに漢籍の講義を聴かせていました。「竟宴(きょうえん)」とは講義の打ち上げパーティーです。パーティーでは、講義された漢籍に関係する人物や事項をテーマにした漢詩がつくられました。確かな年代はわかりませんが、おそらく弘仁年間の初めごろ、『史記』の講義が朝廷で行われ、その打ち上げパーティで豊年(とよとし)は「太史公(たいしこう)自序(じじょ)」というテーマを割り当てられて先の漢詩をつくったわけです。このころから日本で『史記』が本格的に読まれるようになりました。

それから200年ほど経つと、『史記』は平安貴族にすっかり浸透しました。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』には「書(しょ)は」の書き出しで、『白氏文集(はくしもんじゅう)』などと並べて『史記』が挙げられています。『紫式部(むらさきしきぶ)日記』には、父の藤原為時(ふじわらのためとき)が弟に『史記』を講義するのを側で聞いていた紫支部が、弟よりも早く正確に暗唱したので、「この娘が男であったなら」と父を嘆かせた話がでてきます。










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