空海の論書にある「十住心論」には、人の心が進んでいく10の過程が記されている。
一、異生羝羊心(いしょうていようしん)
二、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
三、嬰童無畏心(ようどうむいしん)
四、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
五、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)
六、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
七、覚心不生心(かくしんふしょうしん)
八、一道無為心(いちどうむいしん)
九、極無自性心(ごくむじしょうしん)
十、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)
◎一、異生羝羊心(いしょうていようしん)
羝羊心というのは雄羊の心、すなわち動物的・本能的である。
「淫食を念ずること、かの羝羊の如し(雄羊のように、ただ性欲と食欲ばかりを思う)」
無明の闇は最も深く、自我に囚われ、所有への執着が凄まじい。
「たとえば、獣が陽炎(かげろう)を追って水を求め、蛾が華やかな火に飛び込んで身を焼くようなもの」
水に映った月を欲するが如し。
◎ 二、愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
愚かな童子(愚童)の心にも、いつかは自らを慎み、他に施す心(斎心)が起こる。
「施心萌動して、穀の縁に遇うが如し(他に与える心が芽生えるのは、穀物が発芽するようなものである)」
人は「外の因縁」によって、道徳的・倫理的になっていく。
賢人の徳、自らの誤ちを知り、善行と悪行の因果(原因と結果)を知る。
「たとえば、自らは節食し、それを他の人々に与えることを喜び、足るを知る心が次第に起こる」
◎三、嬰童無畏心(ようどうむいしん)
嬰児(嬰童)が母のふところに抱かれているように安らかなる心地(無畏心)。
しかし、次第に外の世間の苦しみに気づき始め、内には、自己との対峙・葛藤が芽生え出す。
そして生まれる宗教心。
「仏の戒めを知り、来世の安楽を願う」
ここまでの一〜三は、いわば俗世の心。
そして四以降は、悟り、そして境地、真理への心となっていく。
◎四、唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
自我には実体がないこと(無我)、自分の感じ知ることは5つの要素(五蘊・色受想行識)が仮に和合したもにに過ぎないことを知る。
それは今までの無明を知ることであり、その闇の先のかすかな光に気づくことでもある。
いわゆる、禅の十牛図における「尋牛(じんぎゅう)」の始まり。
しかしこの段階では、声聞(仏の言葉)を聞いて悟る者、「羊車の三蔵」である。
◎五、抜業因種心(ばつごういんじゅしん)
「苦」をもたらす「無明の種」は、ここで取り除かれる。
「無明、種を抜く。業生、己に除いて、無言に果を得」
無知(無明)の元(種)を抜き取って、迷いの世界(業生)を取り除く。そして唯一人、悟りの世界(果)を得る。
迷いや業には、その元がある。
「生けるものの心に煩悩が生じるのは、邪な思惟(不正思惟)を主因とし、無明を間接的な縁とする」
その起こり、縁起の法則を知ることで、自分一人の悟りは得ることができる。
これは、一人で努力・修行して得られる境地である(独覚)。
◎六、他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
これは菩薩の境地。己のみの悟りから、他人の悟りへも心が向かう。
「無縁に悲を起こして、大悲はじめて発る」
物事の因果の種を知った己は、縁に囚われるということがなくなる(無縁)。それは、すべてのものが幻影であり、ただ心の働きだけが実在であるということを悟っているからである。
心のみが真実と悟る菩薩は、心に映るものすべては幻や陽炎のごとく「虚妄」であると知っている(唯識)。
その境地には言葉も文字もない。平穏無事の風が吹くばかり。
その菩薩の欲することは、すべての衆生を救うこと(他縁)。
他縁とは、縁に囚われずに、すべての人々に別け隔てなく慈悲の心を感ずることである。
小乗というのが己一人のためのものであれば、大乗というのは自他の境を虚しくするものである。
◎七、覚心不生心(かくしんふしょうしん)
心は何ものによっても生じたものではない(不生)。
心は生じることもなければ、滅びもしない(不生不滅)。
物質に実体がなかった(無我)ばかりか、自分の心に起こることにも実体がないと悟る。
「心に映るものは本来、生じたり滅したりせず、静かに澄み渡っているばかりである」
その澄み渡るこころは自由自在。物の有無に迷うこともなければ、自利・他利の境もない(心王)。
「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不去・不来」
これら8つの不(八不)によって、実在からの迷妄は断ち切られる。
「一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり」
ひたすらに空を観じれば、心は静かに澄み渡り、なんらの相(すがた)なく(無相)安楽である。
◎八、一道無為心(いちどうむいしん)
「この心性を知るを、号して遮那という」
この心を知るものを、仏(大日如来)という。
この境地においては、すべてが清浄である(一如本浄)。人の持つ徳性は汚れに染まらないと観想し、すべての人の心は清浄であることを知るのである。
「すべての人に仏性を見、すべての教えは一道に帰する」
まるで澄み切った水が事物を映し出すがごとく(止観)、静かであってよく照らし、何を照らしても常に静か。
「心は清らかであり、心は外にもなく内にもない。その中間(中道)にもない」
その心は、欲の世界のものでもなければ、物の世界のものでもない。精神世界のものですらないのである。
「境智ともに融す」
主観も客観もともに合一しており、その心は虚空に同じ。
思慮や思慮のないことを離れた境地は、真実そのもの、悟りそのもの。これは空の悟り(無為)である。
◎九、極無自性心(ごくむじしょうしん)
「水は自性なし。風に遇うてすなわち波たつ」
水はそれ自体に定まった性質(自性)はない。風が吹けば波が立つだけである。
そこには一切の対立がない。
対立・矛盾がないゆえに、その世界には一つとして自性(固定的本性)をもつものがない。
宇宙の中のすべては、互いに交じり合い、互いに融け合っている。
「一と多の融合」
一人ひとりの心は、仏のそれと何ら変わるところがない。
「初発心のとき、すなわち正覚を成す」
華厳経は、初めて悟りを求める心を起こした時、たちまち正しい悟り(正覚)を成就する、と教えている。
◎十、秘密荘厳心(ひみつそうごんしん)
「顕薬塵を払い、真言、庫を開く」
一般的な仏教(顕薬)は塵を払ってくれ、そして真言密教が庫の扉を開く。
残念ながら、この境地を説くことは許されていない。
容易く説いてはならない、と戒められているのである。
ゆえに「秘密」といい、すべての分別を超えた境地(荘厳心)がここにはある…。
◎虚空の箭(や)
「箭(や)を虚空に射るに力尽きて、すなわち下(おち)るが如し」
闇雲に矢を空に放っても、それはただ落ちてくるばかり。
これは空海の言葉であるが、的を知らずに矢を放つことの虚しさを説いている。
たとえば、空海の真言宗というのは、即身成仏、すなわち生きながらにして「仏」となることを肯定している。いわゆる自力本願である。
「十住心論」とは、その仏への道筋を示すものであり、たとえ分からなくとも、何となくそんな心の段階を踏んでいくのかということくらいは知ることはできる。
なるほど、虚空の箭(や)は十住心論によって、その的を得るのであった。
ヘタな鉄砲も数打ちゃ当たるかもしれない。
たとえそうだとしても、多少、的の方角が分かっているのは、じつに有り難い…。
出典:
十住心論