2018年4月28日土曜日
色を見、音を聞く刹那…【西田幾多郎】
話:西田幾多郎
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経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。
たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。
勿論、普通には経験という語の意義が明(あきらか)に定まっておらず、ヴントの如きは経験に基づいて推理せられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している。
しかしこれらの知識は正当の意味において経験ということができぬばかりではなく、意識現象であっても、他人の意識は自己に経験ができず、自己の意識であっても、過去についての想起、現前であっても、これを判断した時は已(すで)に純粋の経験ではない。
真の純粋経験は何らの意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである。
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From:
『善の研究』
西田幾多郎
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