2018年4月27日金曜日

無我ではなく「非我」と訳すべき【植木雅俊】


話:植木雅俊




原始仏教についての中村の多くの研究成果の中から 、筆者が注目していることを一つだけ挙げると 、仏教の本義が 「自己の探求 」であったことを明らかにしたことだといえよう 。

後に大幅に増補される決定版 「中村元選集 」の 『原始仏教の思想 Ⅰ 』は 、序編に四つの章 、第一編に五つの章 、第二編に六つの章 、第三編に七つの章 、合わせて22個の章があって 、全体で987頁に及んでいる 。そのうちの第二編第五章 「自己の探求 ─ ─無我説 」というただ一つの章だけで全体の五分の一以上の約220頁を占めていることを見れば 、中村がいかに 「自己の探求 」を仏教の重要な思想の一つだと見ていたかをうかがい知ることができよう 。

そうなると 、 「無我 」ということと矛盾することになる 。 「無我 」は 、パ ーリ語のアナッタン ( a n a t t a n ) 、サンスクリット語のアナ ートマン ( a n ā t m a n )の訳である 。 a t t a n (我 、自己 ) 、あるいは ā t m a n (同 )に否定を意味する接頭辞 a nが付いているので 、 「我が無い 」と訳されたのだ 。

ところが 、原始仏典の古い部分には 、ウパニシャッドに説かれる形而上学的な 「我 」ではなく 、 「自己 」という意味でア ートマン (アッタン )という言葉が用いられていて 、 「自己を求めよ 」 「自己を護れ 」 「自己を愛せよ 」と積極的にア ートマン (自己 )を肯定した発言がなされている 。むしろ 、 「自己の実現 」 「自己の完成 」を説いていて 、 「無我 」 、すなわち 「ア ートマンは存在しない 」といった表現は見当たらないことを明らかにしている 。





そして 、原始仏典の古い部分では 、

見よ 、見よ 、神々並びに世人は 、非我なるものを我と思いなし 、 〈名称と形態 〉 (個体 )に執著している 。 「これこそ真理である 」と考えている 。 ( 『ブッダのことば 』 、第756偈 )

心をしっかりと確立し 、専注し 、よく安定させ 、もろもろの形成されたものは 、 〔自己とは異なった 〕他のものであると見なし 、自己とは見なさないように反省せよ 。 ( 『尼僧の告白 』 、第177偈 )

といった文章が出てきて 、 「何かを自己とみなす 」ことを否定する表現になっている 。それは 、 「何かが自己なのではない 」という意味であり 、 「無我 」ではなく 、 「非我 」 (我にあらず )と訳すべきだとしている 。

それは 、何かを自己とみなして 、それに執著することや 、自己に属さないものを自己に属するものと思いなして執著することを戒めた言葉であって 、 「自己 」を否定したものではなかったのである 。

確かに鳩摩羅什訳 『維摩経 』においては 、 「非我 」という訳が見られる (拙訳 『梵漢和対照 ・現代語訳維摩経 』 、204 、390頁 ) 。





こうしたことから 、中村は 、

戦場において百万人に勝つよりも 、唯だ一つの自己に克つ者こそ 、じつに最上の勝利者である 。 ( 『ブッダの真理のことば ・感興のことば 』 、24頁 )

自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、――このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。( 『ブッダの真理のことば ・感興のことば 』 、25頁)

自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。( 『ブッダの真理のことば ・感興のことば 』 、32頁)

などの原始仏典の言葉を引用し、「喪失した自己の回復、自己が自己となること、これがすなわち初期仏教徒の実践の理想であった。(『原始仏教の思想Ⅰ』、538頁)と結論している。





また、『テーリー・ガーター』の第51偈で、釈尊は、ジーヴァ―という娘を亡くして泣き叫んでいるウッビリーという母親に、

母よ。そなたは、「ジーヴァーよ!」といって、林の中で叫ぶ。〔中略〕ジーヴァ―という名の8万4千人の娘が、この火葬場で荼毘に付せられたが、それらのうちのだれを、そなたは悼むのか?(『尼僧の告白』、19頁)

と語りかけ、「〔汝の〕自己を知れ」(attanam adhigaccha)と諭している。ウッビリーは、自分の娘の死から8万4千人のジーヴァ―の死へと視野が開かれ、今まで認めようとしなかった死という厳粛なる事実を直視するとともに、8万4千人のじーヴァーの母親の思いをも感じ取り、「自己」への眼も開かれたことであろう。





「無我」では、行為の主体を否定することになる。「非我」であれば、何かに執着した自己ではなく、あるべき自己を探求することが求められ、その自己に基づいて倫理的な実践が問われてくる。

自己とは実体としてあるのではなく、人間が人間として生きるところに真の自己がある。そこに、自らの在り方、行為のいかんが問われ、自らをいかに磨くかが大事になる。そこに、思想的に自己と対決することも求められることになる。






From:
仏教学者 中村元 求道のことばと思想
 (角川選書) 単行本 – 2014/7/24
植木 雅俊 (著)


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