2015年8月15日土曜日

「物は八分目にしてこらゆるがよし」 [松岡洋右]


〜話:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』〜


松岡洋右の手紙

 戦争(第一次世界大戦)が終わり、1919(大正8)年1月18日からパリ講和会議が始まります。約半年間の会議は終わり、6月28日、ヴェルサイユ講和条約が締結されました。この会議は「世紀の見物(みもの)」といわれ、講和会議に直接関係する外交官以外にも、世界各国から優秀な若い人材が集まったことでも知られています。ドイツが休戦に応ずるきっかけをつくった、アメリカ大統領ウィルソンの十四ヵ条を書いたといわれる、若き秀才、ウォルター・リップマンなどは、会議に出席するため「どのような資格でもかまいません。参加させてください」とウィルソンの側近に頼み込み、会議にかかわったといいます。

 さて、会議の終わった一ヶ月後の1919年7月27日、松岡洋右(まつおか・ようすけ)は、牧野伸顕(まきの・のぶあき)に宛てて手紙を書きました。その手紙が国会図書館の憲政資料室に残っています。牧野は大久保利通の子供で、西園寺公望(さいおんじ・きんもち)とともに全権となった人物です。

 松岡は長州、つまり山口県の出身でした。松岡の家は元は名家でしたが、維新期に没落します。松岡はアメリカに渡ったのち苦学してアメリカの大学を卒業し、日露戦争まっただなかの1904(明治37)年10月、その年の外交官試験に首席で合格した人物です。その名前は、1933(昭和8)年3月、満州国をめぐる問題で日本が国際連盟を脱退する際、全権として最後の演説をし、国際連盟総会の議場から去っていく映像で著名な人物です。



 さて、手紙の日付は1919年7月のことですから、脱退どころか連盟もまだできていない頃です。松岡はパリ講和会議に報道係主任として行きました。報道係主任というのは、いわゆる情報宣伝部長のこと。松岡は、プロパガンダの専門家として会議の期間中、牧野を支えていたわけですが、半年にわたって、ともに一大国際会議を戦ってきた二人が、戦いが済んだのちにどのような意見を交換していたのか、興味ぶかいところですね。文章は簡単な表記にしてあります。読んでみましょう。

いわゆる二十一ヵ条要求は論弁を費やすほど不利なり。そもそも山東問題は、到底、いわゆる二十一ヵ条要求とこれを引き離して論ずるあたわず。しかも二十一ヵ条要求については、しょせん、我においてこれを弁疏(べんそ)せんとすることすら実は野暮なり。我いうところ、多くは special pleading にして、他人も強盗を働けることありとて自己の所為の必ずしも咎むべからざるを主張せんとするは畢竟窮余の辞なり。

 内容を要約しますと、松岡の主張はこうです。いわゆる二十一ヵ条要求は日本側が弁明すればするほど不利となる。そもそも山東問題は二十一ヵ条要求と分離して論ずることはできない。日本側が弁明するのは無駄なことだ。日本の弁明は、しょせん、「泥棒したのは自分だけではない」といって自分の罪を免責しようとする弁明にすぎず説得的ではない、と。なかなか素敵なことをいっていますね。松岡はアメリカの大学を、すごく苦労して卒業した人です。special pleading というのは、特別訴答(とくべつそとう)と訳される法律用語でして、ここでは、自己に有利なことのみを述べる一方的な議論、という口語的な意味で使われています。こういう片寄った議論をしていてはだめだと松岡は述べているのです。

 日本が(パリ講和会議で)批判をあびたのは山東問題のことです。日本は1914年8月、「中国に還付するの目的をもって」といいながら開戦(第一次世界大戦)したのに、1915年5月、二十一ヵ条要求を袁世凱(えんせいがい)につきつけて、山東に関する条約というものを無理矢理でっちあげた、と。中国に返還するためといってドイツから奪ったのに、結局、日本は自分のものにしてしまったとの、世界および中国からの非難が激しかったことがわかります。



 手紙文からは松岡の苦悩が伝わってくるようです。自分は頑張ってプロパガンダをした。けれど、他の人だって強盗を働いているのだから自分が咎められる筋合いはないという弁明は、「人を首肯(しゅこう)せしめるは疑問」、つまり本当に人を納得させることはできないといっている。

 松岡といえば、連盟脱退演説をしたり、のちに第二次近衛文麿(このえ・ふみまろ)内閣のとき日独伊三国軍事同盟を締結したり、どちらかといえば極端な外交を行う人物というイメージがありますが、この時点での松岡は、実にまっとうな苦悩を抱える外交官であったということになります。このような胸をうつ手紙を書いた松岡のことは、ぜひ忘れないでほしい。

 松岡は、日本政府に対してかなり批判的な気持ちを抱きながら、パリ講和会議での自分の職務に任じていたことがわかる。世界を説得できていないことを自覚しつつ報道係を務める。これはなかなかにつらいことだったでしょう。このような松岡の苦悩一つとってみても、改造運動の要求として掲げられた包括的な十一項目などに、外交官のなかからも共鳴する動きが出てくるだろうと予想できるわけです。





 さて、パリ講和会議のところで出てきた松岡洋右(まつおか・ようすけ)を覚えていますか。彼はなんとその後、外交官を辞め、立憲政友会に属する衆議院議員になっていました。松岡は、1930(昭和5)年12月からの通常国会で代議士として初めての演説を行うのですが、そこは松岡のこと、この後、世のなかを席巻するフレーズ、

「満蒙は我が国の生命線である」

とやったのです。満州事変の9ヶ月も前、時の浜口雄幸(はまぐち・おさち)内閣の外相、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)のすすめる協調外交への批判演説で使いました。

 松岡の主張は、第一に、経済上、国防上、満蒙は我が国の生命線(Life line)であること、第二に、我が国民の要求するところは、「生物としての最少限度の生存権」であること、にありました。満蒙という土地が生命線、生物としての最少限度の生存権といった表現で形容されているところがミソです。つまり、満蒙は日本という国家の生存権、主権にかかわると述べたわけです。





 国際連盟脱退のときの外相は内田康哉(うちだ・やすや)でした。この人は焦土(しょうど)外交というフレーズで有名です。1932年8月25日、なにを思ったのか内田外相は、衆議院の答弁のなかで、満州国承認の決意を表明した際、

「国を焦土にしても」

という強い言葉を使う。このときの内田外相の真意は、現在の研究によって明らかにされています。酒井哲哉という東大の国際関係論の先生や井上寿一という学習院大学の先生が解明しました。このときの内田としては、満州国に関する問題で日本が強く出れば、おそらく中国の国民政府のなかにいる対日宥和派の人々が日本との直接交渉に乗りだしてくるだろう、そういうもくろもがあったのです。

 宥和(ゆうわ)というのは敵対せず協調するという意味で、この方針をとる人々のなかには、中国政府のトップにいた蒋介石もいました。蒋介石としては、連盟がなにもできないことを見越して、ならば、日本と決定的に対立する前に、国内で中国共産党を打倒しておくべきだ、と考えるようになっていました。事実、1932年6月中旬に中国政府は秘密会議を開いて、まずは国内で共産党を敗北させ、その後日本にあたるとの方針を決定し、蒋介石は駐日大使をわざわざ呼んで、「日本に対しては提携主義をとる」こと、日中両国の宥和を少しずつ進めてゆくことを伝えたのです。7月には、共産党を囲い込んで殲滅する四度目の戦いを蒋介石は始めます。



 つまり、ここからは、内田外相の方針が中国政府内の方針の変化にきちんと対応しようとしていたものだったということがわかるのです。ですから1933年1月19日、内田は自信満々で、昭和天皇に対して、「連盟のほうはもう大丈夫です、もはや峠は超えました、脱退などせずに大丈夫そうです」と報告していたほどです。

 この、天皇に対する内田の奏上(天皇に対して申し上げるという意味)を聞いて、とても不安に思った人物がいました。それは、牧野伸顕(まきの・のぶあき)内大臣でした。内大臣というのは、天皇の側に仕えて、政治問題など天皇の職務全般を補佐するための要職です。その牧野は自分の日記に「お上(かみ)は恐れながら、全然ご納得あそばされたるようにあらせられず」と書いています。難しい表現ですが、意味するところは、天皇は内田の奏上に対してまったく納得していない、ということです。昭和天皇としては、強硬姿勢をとりつつ中国側を交渉の場に引きだそうと考えた内田のやり方に強い不安と不満を感じていたのですね。



 内田のやり方に不安を感じていたのは天皇や牧野だけではありませんでした。パリ講和会議で牧野と組んで日本の正当性を世界にアピールしていた、あの松岡洋右もその一人でした。松岡は、国際連盟でリットン報告書が審議される場に、再び日本全権として立った人物です。

 松岡が内田外相に対して、そろそろ強硬姿勢をとるのをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に留まらせるように頑張っている妥協策もうまくいかないですよ、どこで妥協点を見いだすか、よく自覚されたほうがよいですよ、と書いて送った電報が残っていますので、それを読んでおきましょう。難しい言葉は平仮名に直してあります。1933年1月末の電報です。

申し上げるまでもなく、物は八分目にしてこらゆるがよし。いささかの引きかかりを残さず奇麗さっぱり連盟をして手を引かしむるというがごとき、望みえざることは、我政府内におかれても最初よりご承知のはずなり。日本人の通弊(つうへい)は潔癖にあり。[中略] 一曲折に引きかかりて、ついに脱退のやむなきにいたるがごときは、遺憾ながらあえてこれをとらず、国家の前途を思い、この際、率直に意見具申す。

 どうですか。どうも私は「松岡に甘い」と、日頃教えている学生にもよく言われますが、これだけの文章を、連盟脱退かどうかという国家の危機のときに、外相に書けるというのは立派なことだと思います。物事はなにごとも八分目くらいで我慢すべきで、連盟が満州問題にかかわるのをすべて拒否できないのは、日本政府自身、よくわかっておいでのはず。日本人の悪いところは何事にも潔癖すぎることで、一つのことにこだわって、結局、脱退などにいたるのは自分としては反対である、国家の将来を考えて、率直に意見を申し上げます、このように松岡は内田に書く。

 ここで松岡が妥協しろといっているのは、イギリス側が日本に対して提議した二つの宥和方針で、①連盟の和協委員会の審議に、アメリカやソ連など、現時点での連盟非加盟国も入れて、彼らにも意見を聞いてみよう、②日中二国ももちろん当事国として和協委員会に入ってください、というものでした。これは1932年12月、イギリス外相のサイモンによって提案されました。しかし、内田は断乎反対します。アメリカやソ連が加わったら、よけい日本に厳しい結論が出てしまうと内田は考えたのでしょう。

 しかし、これは間違いで、当時のアメリカは不況のまっただなかにあって、他国に目を向ける余裕がなかった。さらに1932年11月、民主党のフランクリン・D・ローズヴェルトが大統領に当選したことで、これまで日本に対して厳しいことを言っていたスティムソン国務長官がハル国務長官に交代する事情もあり、アメリカは国内問題に集中する、つまり非常に孤立的な態度をとる。世界のことなんて関係ない、という態度をとる時代がしばらく続きます。ソ連もまた、1931年12月に、日本に対して不可侵条約締結を提議してきたほどでした。農業の集団化に際して、餓死者も出るほどの国内改革を迫られていたのが当時のソ連でしたので、いまだ日本と戦争する準備などはなかったわけです。

 松岡だけが妥協しろといっていたのではなくて、たとえば、連盟の会議のために陸軍から派遣されていた建川美次(たてかわ・よしつぐ)もまた、陸軍大臣に宛てた秘密電報で、1932年12月15日、「この際、大きく出て、彼ら(米ソ)の加入に同意せられてはいかがかと存す」と書いていました。つまり、ここでいう彼らの加入というのは、アメリカとソ連を加えることですね。陸軍の随員までもが、妥協しろと書き送っていた点に注意してください。




抜粋引用:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ




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