2015年8月16日日曜日

松岡洋右の胆力、国際連盟を呑む [非常時十人男]



〜話:阿部真之助『非常時十人男』〜


松岡洋右



彼を送った感激の日よ


 真に文字通り、この非常時日本の前途と、全国民の輿望と運命とを、双肩に荷負って、昭和七年十月二十一日、暴風雨の如き国民の見送りを受けつつ東京駅頭を出発して以来四ヶ月余り、ほんとど全くの不眠不休で全世界を相手に戦い抜いた松岡洋右氏!

 恐らくはこの非常時日本の舞台に踊る幾人かの、我等の持つ英雄のうち、氏ほどに華々しく、氏ほどに男らしく、そして氏ほどに、本当にこの非常時日本の全国民が、その信頼と声援とを送って惜しまなかった人は他にあるまい。いや、ここ何十年来にもなかったといっても、あながちに過言ではないかも知れない。

 がしかしそれだけに、松岡氏のジュネーヴにおける働きは、真に困難なものでなければならなかった。しかも松岡氏の彼地における活躍振りが、如何にめざましいものであったかは、国民が著しく知っている通りである。



国民の輿望を一身に集めて


 そもそも松岡洋右!と云う名前が、今度の支那事変に際して、はっきり表面に現れて来たのは、例の上海事変が勃発し、氏が芳澤外相の私的代表として上海へ出かけ、各国大公使の間に立って折衝これつとめた時からである。当時、恐らくは国民のある一部のものの間では、松岡氏が上海に行くときいて

「果たして松岡が乗り出したか!」

と、なぜとはなく期待していたものの実現を見た時の如くに、ある心強さを感じたものも決して少なくはなかったことだろう。がやがて、国際連盟関係が紛糾し始めるに及んで、氏は遂に、非常時日本の全権大使として、ジュネーブに乗り込むことになったのである。しかしこの時にもまた国民は、

「松岡ならば、必ずやこの難場を見事に切り抜け、全世界の各国を相手に一歩も引けはとらないであろう」

と、氏の人格、手腕、胆力等々に絶大の信頼をかけることを忘れはしなかった。当時ある口さがなき童らは、「またしても松岡をジュネーヴに送るとは、今の霞ヶ関には松岡以外に人物はいないのか?」などと悪口もしたけれど、果たして今の霞ヶ関に松岡だけの人物が他にいるかいないかはしばらく別問題としても、しかしそれはつまる所は、この非常時日本を双肩に負うて、この難場に向かってビクともせずに世界各国を相手どって喧嘩の出来る腕と頭と口と腹のとのある人物は、松岡氏を措いては他にはないかの如くに見えるほど、実に適材適所であったことを物語っていると見られないことはない。

 のみならず事実においても、外交界における松岡氏に対する信頼が如何に絶大なものであったかは、氏を今度のこの重大なる責任を持った全権大使に推した内田外相を常に「ゴム、ゴム」と一言のもとにいってのけて余り相手にせず、あまつさえ大正十年、内田外相がどうしても手放さぬといってきかないのを無理矢理辞表をたたきつけて外務省を飛び出し満鉄に移ってしまって以来、ついに霞ヶ関には戻って来なかった松岡氏であったけれど、しかも内田外相はその松岡氏にこの大任を依頼したのである。

 世間ではこの内田ゴム外相の推薦を、近頃のフェアー・プレーとして賞賛しているけれど、もちろん内田外相のこの眼識の高さと信頼の厚さとは、さすがと充分に称賛されてよいのであろうけれど、しかしそれと同時に、また、かくまでに内田外相をして信頼せしめた松岡氏その人の、人格、手腕、才能、胆力など、などの非凡なものであったことも、充分に認めなくてはならない所であろう。

 かくして松岡氏は、この非常時日本の全国的な信頼と輿望と声援によって遠く、ジュネーヴに送られたのであったが、しかも氏はよくそれらのすべてに、ものの見事に答えたのである。



誠と熱と胆の外交


 だが、あるいは世間ではいう人があるかも知れない。「今度の対連盟戦は、結局誰がいったって同じなので、わが既定方針に違反するものには、如何なるものに対しても絶対反対という方針のもとに戦ったのであるから、恐らく他の誰がいったって松岡くらいのことは出来たろう」と。

 あるいはこの言葉は、ただ結果からだけ見たならば本当であるかも知れない。だがしかし一体松岡氏を措いて、他に誰があれだけの熱とまことと腹の外交が出来たであろうか? そして結果は遂に最悪の場合に立ち至りはしたけれど、しかも尚、日本の極東における立場と満州国独立の理由とを、事実においては各国に納得させ得たであろうか? 更にまた、他の誰が、あれだけの人気を、世界各国の間と、世界のジャーナリズムの上とにかち得ることが出来たであろうか? 大いに疑問の所といわざるを得ない。

 元来松岡氏は、誠実と熱と胆力と闘志の人だといわれている。そのうえ更に、頭がよく、縦横の機略に富み、非常に雄弁であり、明朗快活な性格の持ち主だという。氏は昭和七年十月二十一日ジュネーヴに向けて東京駅頭を出発する直前、その心境を近親の者に次のように語っている。

「私は正直に是なりと思ったところを邁進するばかりだ。それは『誠実』だ。誠実でことに当ったら、国境を越え民族を超越して納得してくれるに違いない。いわゆる、人を相手にせず天を相手にするのだ」

 これはすなわち松岡氏の念願とするところの「まこと」の外交の信念であり、「明るい、熱」の外交の信念である。この「誠実の外交」そして「明るい、すなわち率直な、熱意の外交」という信念は、松岡氏の、おそらくは生まれるからの念願ともいうことが出来るのであって、氏が、十七年間もの長い外交官生活を弊履の如く捨て去って満鉄にいった動機というのも、現在の霞ヶ関が、徒らに繁文褥礼であり、秘密主義をこととして、少しも「誠実の外交」「明るい、すなわち率直な、熱意の外交」という信念を持っていないのに、腹を立てたのだともいわれているのを見ても分ることであろう。

 氏は当時のその心境を次のように語っている。

「今度のジュネーヴの戦いはわれわれだけの戦いじゃない。わが日本帝国の、全国民の戦いだ。そしてそれは日本の生か死かの戦いである。キリストが一番憎んだのは偽善だ。われわれ日本人が一番嫌いなのも偽善だ。真に平和を念願する正直な外交は歓迎するが、世にいわゆる外交というものは、わが輩は若い時から大嫌いだ。もしこの世界にいわゆる外交なるものがなかったならば、世界はもっと平和であり、人類はもっと幸福だったろう。これ先年わが輩が外交官生活をやめた少なくとも一つの理由なのである」

 この言葉に見ても、如何に氏が「明るい、率直な、誠実な外交」を望んでいるかが分かるであろう。かつて第五十九回議会の予算総会で、当時外相であった幣原氏に向かって、その官僚的秘密外交の事実を遠慮なく指摘して、幣原氏をして顔色なからしめたという逸話も、つまるところは、氏のこの日頃よりの「明るい、率直な、誠実な外交」に対する念願の発露に他ならなかったのである。この常に一つの信念に向かって、誠実に、明るく、率直にという氏の念願は、無論そのまま、今度のジュネーヴの国際連盟会議にも遺憾なく発揮されたのである。



 まず氏は一行と共に昭和七年十一月十八日、ジュネーヴのコルナヴァン駅に到着したのであるが、その日の夕方、氏はレマン湖畔のメトロボール・ホテルのホールに、ほとんどホテル全部を占領しているかの観ある日本人全部を集めて立食の宴を張るとともに、早くもその席上で、ジュネーヴ到着第一声を発したのであった。がその演説においても、氏はこの信念を判然と物語っている。

「今度の会議は決して単なる一満州国問題の解決だけではない。日本の極東における大責任と大抱負を宣明し、世界人道の根本に立脚して平和的日本精神を発揚せねばならないのである。破滅に向かいつつある西洋文明に代わに崇高なる東洋精神を持ってせんとするのである。これはまことに歴史の上に一期を画すべき重大事業である。自分の眼中には外交官なく、軍人なく、新聞記者もない。ただ赤裸々の日本人の姿がうかぶのみでえある。九千万の同胞はこの点においても一致団結、この松岡を導いてくれるのを感ずる。自分には何ら秘すべきものなく、何らやましいこともないから、何人の前に出ても断固として所信を披瀝するであろう。われに技術なく、策略もない。そんなものはこの際不用である。ただ誠実だにわれにあらば、何も恐れるに足らぬ。日本国民は今や上下をあげて堅い決心をしている。すなわち『自ら顧みて直(ただし)くんば千万人といえども我往(ゆ)かん』、この覚悟である」

 この演説は、氏の国を思う心のほどがほとばしり出て、並みいる一同をして感激の波に酔わしたのであるが、それとともに、ここに現れている氏の、どこまでも、いわゆる「外交」などという「技術」や「策略」に依ることなしに、真心をもって、正直に、明るく、堂々と事に当ろうという信念こそは、また一同に深き感激を与えたのである。



松岡氏の動かざる信念


 ただ誠実だにわれにあるならば、何も恐るるに足らぬ。自ら顧みて直(ただし)くんば、千万人といえども我れ往(ゆ)かん。

 何という強い信念であろう。そしてこれこそ、まことに我等日本人が世界各国に向かって言いたかったことではなかったろうか。すなわち松岡氏はこの強い信念のもとに、明るく正直に、ありのままに、世界各国に向かって、今度の満州問題を、上海事件を、そしてそれから極東における日本の立場を、満州の立場を、また支那の国状を説いたのである。自ら顧みて直(ただし)くんば、千万人といえども我往(ゆ)かん! この信念があったればこそ、松岡氏は堂々と各国代表を説いて回れたのである。これは実に、松岡氏ならでは出来ない芸当ではなかったのではあるまいか?

 しかも松岡氏のこの明るい誠実の外交は、ついに立派に功を奏したのである。それは実に昭和七年十二月八日、国際連盟特別総会の第三日目であった。この日こそ、松岡外交!がついに世界の外交を動かした、その当日であった。



 が、これよりさき松岡氏は、十一月二十一日午前十一時、レマン湖畔の連盟本部、鏡の間に開かれた「理事会」第一日より、二十二日、二十三日、二十四日、二十五日、と五日間、連日に渡って、あるいは支那代表を相手に、あるいは世界各国代表を相手に、あるいは小国代表の陰謀組を相手に、あるいは議長を相手に論戦をし、更に十二月に入っては、六日より開かれた特別総会において、盛んに論戦をくり返して来たのであった。

 まず十二月二十一日の理事会第一日は、実に松岡氏の演説によって火蓋は切られたのであったが、その演説中に氏は

「今日の支那の如く、外国の陸海軍が駐在するが如き状態の国が、一体世界のどこにあるであろうか? そしてこれは一体何を物語るのであろうか?」

と述べて、つづいて支那の排外事情やボイコットの実情を述べ、リットン報告書の誤りや認識不足を完膚なきまでにやり、

「余は理事会がしばらく忍耐し、今日までもっぱら寛大に支那に与えた忍耐を、少しばかり日本に与えられんことを要求する。日本はいずれの国家とも戦争を欲するものではなく、現在以上の領土をも望まない。日本は侵略国にあらず、日本は深くかつ熱心に、偉大なる隣邦の福祉を希求するものである」

と、堂々一時間半の演説を結んでいる。これに対して支那代表の顧維鈞氏は、松岡氏の演説に反駁を加えたのであったが、その演説は松岡氏に比して余りに見劣りがして気の毒であったことは、当時の新聞が報じているところである。が、ここに面白い逸話のあることは、この日、支那代表がその演説を終わると、松岡氏はつかつかと顧維鈞氏の側により

「やあ、素晴らしい出来でした。お祝いします」

と言って握手したということである。これは悪くとればいや味にもとれるが、しかし松岡氏と顧氏とは、古くからの友達である。だから松岡氏のような、率直な、明快な人には、公人としては激論しても、一私人に帰った時には、心から友達の成功を祝い合うという気持ちになれるのであろう。これなど、いかに松岡氏が、明るい誠実な性格の持ち主であるかという、最もよい証拠になるのではあるまいか。



胆すでにして連盟を呑む


 かくして第一日は終わり、明くれば理事会第二日目である。この日、松岡氏は原稿なしの長時間の演説をしたのであるが、服装まで灰色の瀟洒たる背広服であったというのは、いかに氏が、この会議を呑んでかかっていたかというよい証拠で、その胆力の大きさにはむしろ驚くべきものがあるのではないか。

 しかもこの日の演説においては、前日の顧維鈞氏の反駁論に対して、こっぴどい反駁を加え、顧維鈞氏が知ったか振りに引き出した豊臣秀吉や田中義一男の上奏文などに対しては、日本開闢以来二千六百有余年間に、ただ一人の豊臣秀吉しかいなかったという事実は、日本国民がいかに非侵略国民であるかを物語っているではないかと言い、また田中義一男の上奏文に対しては、その真相を明らかにし、これに見ても、いかに支那は悪宣伝の巧みな国であるかを見よとやっつけ、さらに支那の排日 貨運動や、排日教育の事実を詳述するなど、まったく会場全体を魅了し去った感があったという。しかもこの松岡氏の所論に圧せられた支那代表は、堂々数時間に及ぶ松岡氏の演説に対して、僅かに二十分に足りない反駁をしたのみにすぎなかった。

 かくして松岡氏は理事会第三日にも第四日にも、ほとんど傍若無人と見えるほどに、縦横に活躍し、時にはデ・ヴアレラ議長とわたり合って、まったくこれをたじろかせなどしつつ、理事会五日間を、完全に氏の独舞台としてしまった。しかもこの間、松岡氏は飽くまで堂々と、明るく、誠実に、だからしたがって闘争的に、腹のすわった、熱意のある戦い振りを示して来た。この鮮やかな戦い振りは、明らかに我々日本人の溜飲をさげるに充分なものであった。

 しかしこの松岡氏の努力にもかかわらず、日支間の主張の隔たりは依然として遠く、ついに何等の解決点も見出し得ないままで、十二月六日からの特別総会に入ることとなってしまったのである。



 ついに特別総会のその日は来た。この日より四日間、全世界の視聴を、レマン湖畔の一ヶ所に集注せしめつつ開かれる会議こそは、まさにわれら日本の前途を決すべき会議である。

 しかも松岡氏は数日来、昼は会議や内外関係要人との会見応酬に寸暇もなく、夜は二時三時の明け方までも、長岡、佐藤両全権をはじめ、他の人々と協議をとげ、あるいは会議の原稿作成にあたり、朝は七時をすぎれば床を蹴って早くも会議関係書類の研究に没頭するなど、その活躍ぶりは、まったく涙の出るまでにいじらしくも男々しいものであったという。

 かくしてやって来た総会第一日の朝の松岡氏の眉 宇には、さすがに決心の色がほの見え、この日特に氏は皇太后陛下より御下賜のカフス・ボタンを佩用、さらに重要書類を入れたポート・フォリオの中には、明治大帝の召された羽二重の御召物を奉書の紙に包んで、護神として納めていたのであった。これを見ても当日の松岡氏の覚悟のほどは、うかがい知ることが出来るであろう。

 が、それかあらぬか総会第一日の空気は、俄然日本側に有利に展開されたのであった。そしてそれまで理想論から支那を支持してきた国の中にも、日本の立場を是認しようという機運さえ生じてきたくらいであった。これは実に、一重に当日の松岡氏の、誠実真摯な演説の賜に他ならなかったのである。



 けれども総会の空気は、第二日に至って、いわゆる小国側の理想論と策動とにより、小国共同の反日的決議案が提出されるに及び、俄然まったく一変して険悪なるものとなってしまった。この小国側提出の総会決議案が、果たしてどう取扱われるかによって、わが日本は重大な場面に立ち至らなくてはならなくなったのである。

 こうして第二日は暮れて、第三日の朝は来たのであったが、この日に至り、ついに松岡氏は猛然と立って、実にフランス代表ボンクール氏をして

「これこそは実に歴史的大演説である」

と絶叫せしめた、大熱弁を振い、世界の外交をして動揺せしめたのであった。それはさきに書いた、昭和七年十二月八日、その日のことである。



闘志満々、連盟相手の大喧嘩


 総会三日目は、午前十時五十分に開かれた。まずトルコ及びメキシコ代表の演説が終わった時、松岡氏は突如発言を求めた。そして静かに立ち上がった。松岡氏は今や、前日、スペイン、アイルランド、スウェーデン、チェコの四国から提出された決議文、すなわち我が軍事行動を自衛権を逸脱せるものとし、満州国不承認の宣言を、連盟の名によってなそうという決議文に対して、即時脱退をとして、雌雄を決しようとしているのである。松岡氏の口からは第一言がもれた。

「余はスペイン、アイルランド、スウェーデン、及びチェコスロバキア代表によって提出され、だたいま配布された決議案を読んで、遺憾の意を感ずるものである。本総会において各代表が述べられた如く、吾人は世界諸国民間の諒解を確立し、和協によって日支問題の解決を得る目的をもってここに集合しているのである。いま吾人の前に提出せられている決議草案は、現実の状態にも、またリットン報告書中に記載せられおる調査判定にもそわず、またわれわれが、ここに集まれる所以の、国際連盟自身の主義にも一致しない言辞をもって綴られている。同決議案は明らかに理由なき非難的精神をもって書かれたものであって、かくの如きは余の全然適正なりとなすあたわざるところである。ゆえに余はここに連盟の利益のために、本決議案の撤回を要求する。しかしてもし容れられざる場合には、余は総会議長に対して、総会の認識力を知るために同決議案を表決に問うべきことを要求する」

そうして松岡氏はさらに語を強め

「最後に余をして付言せしめよ。すなわち本決議案の取扱い如何によっては、余といえどもかかることの招来すべしとは思わぬが、提案者自身の意図せざる、または期待せざりし結果をも招来するにいたらんことのあるべきを恐るるものである」

と闘志満々、ここに至ってはじめて氏は氏の持てる胆の太さを発揮し、自分の所信に向かっては千万人といえども我行かんの慨を見せて、総会に大喧嘩を吹きかけていったのであった。



火と燃ゆる熱弁に泣く


 この予期せざる松岡氏の、闘志満々たる反対に出会って、今更のごとく驚いたのは小国側の策士連であった。彼らはまったく度を失って、会議中も会場にいたたまらず、別室に寄り集まって前後策に腐心するなど、醜態のかぎりを尽くしたが、ドラモンド事務総長などに泣きつき、辛うじて面目だけは保てることとなってようやく愁眉を開いたという有様であった。

 かくてその日の午後、再会の会議において、松岡氏はいよいよ総会最初の大演説に入ったのである。それは実に一時間半にあまる熱弁であった。まず最初には、支那代表を軽くたしなめ、さらに小国側に対しては、その常に感じつつある不安に対しては大いに同情するも、今度の日支事件に関するかぎり、日本の満州や上海においてとった行動に対する非難については、痛烈な反駁を加え、そして松岡氏は静かに結論に入っていった。

「今や、日本九千万の国民は一人の如くに結束して立っているのである。それは単なる軍人の行動ではない。国民全体の行動なのだ。満州問題は日本にとっての死活の問題である。そのためには日本は、いかなる連盟の制裁をも恐れはしない。さらに余をして予言せしめよ。支那は次の十年間、おそらく二十年間はまったく統一しないであろうし、強固なる政府も持ち得ないであろう」

 誰かこれに反対を称え得るものがいるか? と言わんばかりに、はっきりと言い切って松岡氏は全会場をぐっと見回す。この松岡氏の一言に支那代表は淋しげにうつむいているのみだ。松岡氏はさらに語をつぐ。

「もし諸君が、この複雑きわまりなき満州問題を審議せんと欲するならば、一層深くより多くの事実について知らなくてはならない」

と、ここでまた再び支那の実情をこと細かに論じ尽くし、ますます支那代表をうつむかしめつつ、

「これが極東の実情である。真相である。この実情に直面して、いったい今日までどこの国が責任と実力とをもって極東の平和を守ってきたか、それは日本ではないか。諸君、この事実を直視して何と考えるか?」

と、策動止むなき小国側の代表たちをぐっと睨んで身動きもさせぬ。

「日本が連盟に加入したのは、アメリカも加入すると思ったからだ。ところがアメリカは加入を肯(がえん)じなかった。ロシアも連盟外にいる。この二大非連盟国に挟まれ、支那という擾乱常なき国を相手にする日本に対し、どうして連盟規約を手加減もせず適当できようか。日本は連盟に忠実であり、その義務を守ってきたが、何の酬(むく)いを受けたであろうか? 日本は極東の平和を維持し、共産主義跋扈の防御線をなしているのに、なにゆえに連盟は日本に対して無理解であるか。支那の尻馬にばかり乗らず、正道に立ち帰って日本の行動と立場を理解するだけの親切が連盟にないのか」

 松岡氏の心情はここに至って、まさに白熱しようとしている。そしてさらに語はつづく。

「日本は世界の世論から感謝されこそすれ、非難される覚えはない。しかし世界の世論が反対でも、日本は正義を信じて進み、世界の世論をして日本の正義を認めしめる確信がある。それは実にナザレのキリストの心境と同じだ。二千年の昔、ナザレのキリストは世界の世論によってはりつけにされた。しかし今や世界は、キリストの前に膝まづいているではないか」

 松岡氏の演説が終わると、会場が割れるかと思われるばかりの拍手であった。それはついぞ日本代表に送られたことのなかった拍手である。と見ると、列席していた日本人は、誰も彼もみんな泣いていた。嬉しかったのだ。それは日頃から言いたくて堪らないことを、そのまま、これほどはっきり言ってくれたことはなかったからなのだ。今まで常に欧米諸国に遠慮し、押さえられて、言いたいことも言い得なかった鬱憤が、一時に晴れたからなのだ。

 やがて松岡氏が自席に戻ると、まず第一にフランス代表のボンクール陸相がとんで来た。つづいて英国代表のサイモン外相が来た。旧友の英国陸相ヘールシャム卿が来た。つづいて誰彼の差別なく松岡氏は握手ぜめにあっていた。わけてヘールシャム卿は松岡氏に抱きつきながら

「何という素晴らしさだ! 三十年間の私の外交生活中、これほど素晴らしい演説をきいたのは初めてだ!」

と大声に叫んだという。またフランスのボンクール氏は

「この演説こそ、ヴェルサイユ会議におけるクレマンソーの猛虎演説に比すべき、歴史的大雄弁だ!」

と感嘆していたということである。



松岡誠実外交、ついに勝つ


 かくして松岡氏は、異常なる努力と成功とを納めたはずであったけれども、しかもその結果は、ついに最悪の場合となってしまった。がしかしそれは松岡氏の手腕、人格、努力が不足していたからとはいわれない。否、むしろ松岡氏なればこそ、その誠実と熱とをもって、事実においては日本の立場と、満州国との特殊的立場とを、各国に承認させたのだと見るべきではないであろうか。正に松岡氏の「明るい、誠実の外交」の勝利! なのだ。果たして然りとするならば、松岡氏の得意や、いかばかりであろうだろう。

 元来松岡氏は少年時代から、明るい、誠実な、曲がったことのきらいな、闘争的な性格であったということだ。松岡氏は長州室積港の古い廻漕問屋『今五』の次男として生まれたのであったが、当時から「喧嘩松岡」という仇名があったくらいの喧嘩好きの少年で、ついに「洋右少年のあるところ喧嘩あり」ではあったけれど、それがことごとく、悪をこらす正義の喧嘩であったとは、今も町の老人たちが話すところだという。

 また氏はたとえ先生であっても、間違ったことは決して許さなかったということで、授業時間でも、もし何か先生が間違った理屈でも言おうものなら、持ち前の雄弁を発揮してまくし立て、たちまちにしてやりこめて授業も何もめちゃくちゃにしてしまったものだという。そのため当時の室積町の小学校の教員室には、松岡時間という言葉ができていたくらいだったということだ。

 こうした少年時代の逸話から見ても、いかに氏が、正しいことのためには、敢然として千万人といえども行かずにはいられない性格の人であるかということを、知ることができる。そして松岡氏は見事にこの性格のために、あの大任を無事つとめ、あまつさえ成功したのである。

 また氏がいかに誠実なる人格であるかということは、その美(うるわ)しい家庭生活を見れば一目瞭然である。というのは、氏の家庭は生活、政治家としては珍しいほど、暖かく美しいもので、一点の疑惑も一点の不満もなく、明朗鏡の如きものであるという。また氏は非常な親孝行で、どんな忙しい時でも、ほとんど毎月のように、日本にいるかぎりは、郷里三田尻にいる母親の機嫌を伺うために帰省することを怠ったことはないという話である。

 現に氏の母堂は九十一歳の高齢で、今日も三田尻に余生を送っているが、この老母が、雨の日を除き、毎朝身を清めては氏神に詣で、氏の全権としての大任が成就するようにと願をかけているという話が、ジュネーブにいる氏の耳に入った時、氏はびっくりして、特に放送局の局員に依頼し、

「どうか、これからは家の中からおがんでくれるように、母親に伝えてくれ」

とたのんだという話は、あまりにも有名なことである。


 また親に篤い氏は、同時に子供に対しても誠実なる父親である。氏には六人の子供さんたちがあるが、氏はどんな忙しい旅行の時でも、必ずこの子供さんたちに絵葉書を書くことを忘れないという。現に今度のジュネーブからも、僅かなひまを見ては子供さんたちへの便りは怠らなかったということだ。

 この明朗なる家庭の夫! この誠実なる人の子! そしてこの誠実にして温良なる人の親! かくあってこそ、はじめて氏の「明るき、率直な、誠実」の外交は生まれ出てくるのである。



松岡氏の有力なる武器は?


 が、ここでさらに忘れてならぬことは、氏があれほどまでに、世界各国の代表を向こうに回して、堂々一歩もひかぬ論陣を張り得たのは、以上のようなよき人となりの他に、氏は日本有数の支那通であると同時に、満州というものに対して、身をもってこれを愛する愛情を持っていたこと、そしてそれと同時に、氏は外務省でも、「仏語の佐布利(さぶり)、英語の松岡」といわれるくらいの、一流の語学の天才であったということである。

 というのは、氏は十四歳の年に、早くも従兄につれられて渡米し、それから後は、北米オレゴン州のポートランドで学僕をしたり、またスコットランド人の牧師さん姉弟に、実の子のように愛されて教育されたり、それからまたある時は、オークランドの果樹園でさくらんぼ取りに雇われたり、やがて苦学しつつハイスクールを経てからは、やはり苦学しつつオレゴン州立法科大学に学んでここを卒業し、帰朝して外交官試験に一番でパスして、今日ある生涯の第一歩を踏み出したので、その少青年時代をまったくアメリカに過ごした氏は、酔えば英語でくだを巻くというほどまでに、完全に英語をマスターしている一人なのである。この素晴らしい語学の力が、氏の今度の大任を、成功裏に完(まっと)うせしめることに力あったことは、否めない事実であろう。

 次に氏は、外交官試験を一番でパスしたそもそもその初めから、領事官補として上海へ赴任せしめられたほど、氏の外交官生活も、またその後の生活も、支那とは切っても切れぬものであると同時に、ことに満州には氏の残してきたたくさんの仕事さえあるのである。

 現に氏は上海総領事より関東都督府の外事課長、秘書課長、文書課長に、やがてそれからロシアとアメリカを経てふたたび日本に帰り、それから外務省をとび出して、満鉄の理事となり、この間に張作霖その他の人々と知るようになったのであるが、満鉄理事としては氏は畢生の努力を払って、満州のために吉敦鉄道や鄭洮線鉄道などを敷いている。

 これに見ても分かるように、氏と支那、ことに満州との関係は、決して昨日今日のものではないのである。ばかりか氏が満鉄にいる間、常に夢みつつあったのは満蒙鉄道網であったのだけれど、その後日本の権益が支那によって冒される度に、この氏の残してきた満州の事業は片っ端からこわされていっていた。これはいかに氏にとって悲しい口惜しいことであっただろう。

 つまるところはこうした氏の日頃からの口惜しさが、満州国問題に対しては、いかなるものが来ようとも一歩も退かぬぞという強い信念を、氏の頭に生まれしめたのであったと見ることは、必ずしもあて推量ではない。

 がいずれにせよ、このよき人となりと、この素晴らしい語学の才と、この満州に対する愛情と、この支那に対する正確なる知識とが、松岡氏をして世界の外交界に立って、一歩も退かず、堂々日本の主張を主張して、世界各国に耳を傾かしめさせたのである。

 帰朝して後の氏の前途には、必ずや輝かしい幾多のものが待ちかまえている。そしてそれはあるいは、国民の望みつつあるところであるかも知れない。






(了)






引用:阿部真之助『非常時十人男』




0 件のコメント:

コメントを投稿