2015年8月15日土曜日

国際連盟からの脱退 [半藤一利]



〜話:半藤一利『昭和史1926-1945』〜





42対1の決議

 昭和8年(1933)年2月25日の閣議では、陸軍大臣・荒木貞夫(あらきさだお)大将と外務大臣・内田康哉(うちだやすや)が

「ここまでくれば、国際連盟から脱退だ」

と主張しはじめます。この時は他の閣僚には「まだまだ」と言う人もいて、斎藤実(さいとうまこと)首相も「とんでもない」というので、結論は持ち越されました。ところがここでまた新聞がやりはじめるんですね。「一体ぜんたい今の内閣はなんなんだ、こんなに国際連盟からひどいことを言われてヘーコラするのか」と。

「これ実にこれ等(ら)諸国に向って憐(あわれみ)を乞う怯懦(きょうだ)の態度であって、徒(いたず)らにかれ等の軽侮の念を深めるのみである。…わが国はこれまでのように罪悪国扱いをされるのである。連盟内と連盟外の孤立に、事実上何の相違もない」

 つまり、今日本が連盟で孤立しているというのなら連盟の外にいても同じ孤立じゃないか、どこに違いがあるのか、ならば憐れみを乞うようなことはするな、いい加減にしろ。これが毎日新聞(当時は東京日日新聞)2月18日の記事です。閣議で「国際連盟脱退だ」の主張が押さえつけられた直後にやり出したわけです。



 1933年2月20日、ついに国際連盟は、日本軍の満州からの撤退勧告案を総会で採択しました。その知らせが届くと同時に、日本政府は断固、国際連盟からの脱退という方針を決定せざるを得なくなります。22日、新聞は一斉に「いいぞいいぞ」とその脱退に向けての国策を応援し盛り立てます。当時の朝日新聞には、隅のほうに小さく、

「小林多喜二(こばやしたきじ)氏、築地で急逝、街頭連絡中に捕わる」

の記事が載っています。プロレタリア文学の旗手といわれた小林多喜二が殺されたのがちょうどこの時でした。特別高等警察(特高)が猛威をふるっていたのですね。

 正式には2月24日、国際連盟は総会で、日本軍の満州撤退勧告を42対1、反対は日本のみで採決します。全権大使の松岡洋右(まつおかようすけ)は、長い巻紙を読みながら演説をぶち、「さようなら」と言って席を立って、撤退勧告が採決された際の既定の国策どおり、日本は国際連盟から脱退します。





 松岡洋右はこの時、ものすごく強気のように見えて、実はそうではなかったというのが歴史の皮肉なんですね。威勢よく演説をして「さよなら」と随員を総会の会場から引っ張り出して出て行ったのですが、後で、

「こと志と違って、日本に帰ってもみなさんに顔向けができない。仕方がないからしばらくアメリカで姿をくらまして、ほとぼりがさめるのを待とうと決心した」

というふうに全権団の随員で参謀本部員の土橋勇逸(つちはしゆういつ)に言ったそうです。そしてまさに彼は孤影悄然たる思いでスイスからアメリカに行き、はるか彼方、日本の状況をしばらく眺めていました。

 ところが驚いたことに、新聞は「四十二対一」を素晴らしいとほめあげ、松岡を礼賛して「今日、日本にこれほどの英雄はない」と持ち上げていたもんですから当人は大いに喜んで、これは早く帰らねば、と勇んで帰国したというのです。



 この思わぬ事態を『文藝春秋』5月号の匿名月評子が批判しています。

「連盟脱退は我輩の失敗である。帰国の上は郷里に引上げて謹慎するつもりだ」

とニューヨークの松岡の告白があった。確かに「連盟脱退は明白に日本の外交の失敗であった」としなければならないのに、新聞はこれを一切報じないし一切問わない。松岡代表のその告白さえ報じていないのである。それで「松岡が英雄とはいったい何たることだ」というふうに批判したのです。

 日本国民はそのような事態を知りません。新聞は書きませんし、国際連盟からの脱退がその後の日本にどういう結果をもたらすかについての想像力もありませんでした。勇んで「栄光ある孤立」を選んだ、などという言葉でもって、日本国民は「今や日本は国際的な被害者であるのにさながら加害者のごとくに非難されている」と信じ、ますます鬱屈した孤立感と同時に「コンチクショウ」という排外的な思いを強め、世界じゅうを敵視する気持ちになりはじめるのです。排外主義的な攘夷思想に後押しされた国民的熱狂がはじまりました。

 一番大事なのは、この後から世界の情報の肝心な部分が入ってこなくなったということです。アメリカがどういう軍備をするのか、イギリスがどういうことをしているのか、などがほとんどわからなくなります。つまり国が孤立化するというのは情報からも孤立化するということですが、それをまったく理解しなかった。つまり日本はその後、いい気になって自国の歴史をとんでもない方向へ引っ張っていくという話になるわけです。





 昭和天皇は、日本が国際連盟から脱退の方針が決してしまった後も牧野内大臣を呼んで、

「脱退するまでもないのではないか、まだ残っていてもよいのではないか」

と聞いたそうです。牧野内大臣は、

「まことにごもっともとは思いますが、脱退の方針で政府も松岡全権もすでに出処進退しております。今にわかに脱退の方針を変更することは、海外の諸国に対しては、いかにもわが国の態度が浮薄なように思われて侮られます。また国内の人心もこれ以上がたがた動揺するのみであります。ですからこの際、この方針を政府が貫くほかはございません」

さすがの牧野さんも五一五事件以来、腰が引けたせいもあったのか、そう答えました。これに天皇は、

「そうか、やむを得ないのか」

と空を仰いだという話が残っています。






引用:半藤一利『昭和史1926-1945




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