2015年8月30日日曜日

念流「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」


〜話:念流二十五世、樋口十郎右衛門源定仁〜


 念流(ねんりゅう)は

「後手必勝(ごて・ひっしょう)」

徹底的な護身を旨とした自衛の剣です。その理念として、すべての人生に通ずる剣法であること、和の剣法であり、人を倒すことを目的とせず、

「十分の負けに十分の勝ちあり」

の精神をもつことを掲げています。念流十四世定高の

「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」

の教えのように、「勝つことを求めず、守りに徹し、最後に相手の負けを認めさせる」剣術です。あくまでも争うことを善とせず、「剣は身を守り、人を助けるために使うもの」と考えています。



 当流に入門した門弟は、後ろ足に重心を置いた八文字型の「足捌き(あし・さばき)」を学びます。上体は常に相手を真正面で受け止めるため、体を開くことはありません。加えて全身、とくに下半身の鍛錬を行います。これを「体作り(たい・づくり)」と言います。当流の業(わざ)は、すべてこの所作の上に成り立っているため、これを身に付けなければ、数々の業を身に付けることはできません。

 当流の「気合(きあい)」は古来より連綿と継承され、そこに「手の裏(うち)」の極意があります。「気合」は単に声を出しているわけではなく、全身の動作と連動した呼吸法です。体の動きは「形(かた)」、呼吸は「気合」で覚えます。当流の「気合」と「手の裏」は、道場で先輩を真似ることで身に付くのが理想です。これを「見盗り稽古(みとり・けいこ)」と言います。



 当流の初心者への稽古は、体得を主体とし、言語による指導はできるかぎり避けています。指導者が言語化した情報はそれを体得した者は理解できるのですが、初心者にとっては理解不能どころか、誤解を生む可能性があります。身に付いてきたと思う時期に、指導者の言語でその動きを体系化しながら頭に刷り込む作業は必要です。しかし、基本は単純だからと、言語で教えようとしてもまったく身に付きません。

 基本に忠実、そして人の動きを見て覚えると上達は早いものです。頭で覚えたことは、それを修正したときに狂いが生じます。当流では一度できあがりつつある形を、もう一度崩すくらいの激しい稽古をしつつ、本当の業と体の習得を目指します。これを何度も繰り返していくのが念流の稽古です。それには10年、20年かかります。



 剣の動き、体の動き、これはその人のこころの表れです。当流では、お互いの気合が合えば「剣と剣がクモの糸で引かれ合うように動いていく」と言われます。無駄のない剣の動き、その体の動きには、その人の瞬時のこころを感じるときがあります。恐れ、怒り、気負いがあれば、剣と体は離れ、その動きはぎこちなく、無駄に速くなったりするものです。こころ静かに相手の動きを見て、気合、気配を感じながらその流れに逆らわずに剣を使えば、速くも遅くもなく、剣と体は同体となり無駄なく動きます。

 当流には「気位(きぐらい)」という言葉があります。「気位」とは相手が感じるものであって、自分が感じるものではありません。自分で感じてしまっては、うぬぼれや自信過剰です。相手に剣を向けるとき、この時点では勝負は誰にもわかりません。勝ちを意識しても負けを意識しても、体と思考は硬直してしまいます。自分の剣の「心」を信じ、相手の剣と交わるまでは体の力も抜いて、臨機応変に変化できるように気を保ちます。「負ける所を勤めて、勝つ所を知る」の精神が「気位」につながります。



 剣はその刃で人を殺(あや)めることのできる道具です。剣はその剣尖を相手に向けた瞬間よりその意味が生まれます。木剣であれ、当流の袋竹刀(ふくろ・じない)であれ、その剣には刃があります。

 しかし、道場では往往にしてその刃の存在を忘れて単なる棒の稽古になる場面があります。剣術の稽古で危険なのは、この剣の意識の低いときです。相対した者の意識と、剣に対する恐れを感じ、自らは「気位」を保ち、相手の「心」をとることが当流の修行です。

 当流の剣術は、その人を育てる慈しみのこころを持つ師の剣を受けること、そして信頼関係のある門弟同志が剣を交えることでしか修行できません。それこそが、当流が「和の剣」と言われた所以であり、念流創始者である慈恩和尚の名前の由来と私は信じています。




出典:月刊「武道」2015年9月号
樋口十郎右衛門源定仁「念流随想」


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