2013年7月8日月曜日

日本人の精神を培ってきた「実語教」



日本人が江戸時代、寺子屋で学んだという「実語教」

作者は「弘法大師(空海)」、平安時代に成立し、鎌倉時代に普及した書物だという。



その書は、こう始まる。

「山高きがゆえに貴からず

 樹あるをもって貴しとす」

山は高いからといって価値があるわけではない、そこに材となる木が育つからこそ貴(とうと)いのだ、と。



そして、こう続く。

「人肥えたるがゆえに貴からず

 智あるをもって貴しとす」

人は太っているから尊いわけではない、知恵があるからこそ貴い。



「富はこれ一生の宝、身滅すればすなわち共に滅す

 智はこれ万代の財、命終わればすなわち随(したが)って行く」

富は一代限りののものだが、知恵は世代を超える。お金だけを後に残しても、知恵ある教育がなければそれは一代で使い尽くされてしまう。だが、知恵を次の世代に教えていけば、財(たから)は万世のものとなる。



「玉磨くざれば光なし、光なきを石瓦とす

 人学ばざれば智なし、智なきを愚人とす」



「倉の内の財は朽つることあり、身の内の才は朽つることなし

 千両の金を積むといえども、一日の学にはしかず」







江戸時代の子供たちは、こうした文を「素読」していたと、齋藤孝教授(明治大学)は言う。そして、こうした古典が「精神の柱」となっていったのである、と。

「ここで、『精神』と『心』を分けて考えてみましょう。心はちょっと『移り変わりやすいもの』なんですね。一方、精神というのは心と違って『変化しない』んです」と齋藤教授は言う。

たとえば、武士道の精神は昨日と今日で変わることはない。論語の精神などは2,500年も前から変わらない。



「情に棹させば流される」と夏目漱石が言ったように、心は流れやすい。一方の精神には「芯」があり、「柱」となりうる。

心を「感情」とすれば、精神は「意志」となろうか。








とかく不安定な心は精神という支えなしには折れやすい。

「その折れやすさたるや、ポッキーのように、それで折れる? という感じなんですよ」と、齋藤教授は明治大学の学生を見て感じているという。

「学生たちは不安定な心で人格を支えようとしているから、心が折れやすい。精神で支えれば人格は安定するのです」と教授は言う。



江戸時代の子供たちの人格を支えた精神とは、冒頭の「実語教」をはじめとした「童子教」や「論語」などによって培われていたという。

「智に働けば角が立つ」とも夏目漱石は言ったが、精神を養う「智」はむしろもっと心の内側にあるようにも思う。その点、外側にひけらかすような智は、やはり角が立つのかもしれない。








以下、実語教の続き(中略あり)。



「師に会すといえども学ばざれば、いたずらに市人に向かうがごとし

 習い読むといえども復せざれば、ただ隣の財を数えるごとし」



「富貴の家に入るといえども、財なき人の為はなお霜の下の花のごとし

 貧賤の門を出ずるといえども、智ある人の為にはあたかも泥中の蓮のごとし」



「己が身をば達っせんと欲せば、まず他人の身を達っせしめよ

 他人の愁いをみては、すなわち自らともに患うべし

 他人のよろこびを聞いては、すなわち自らともに悦ぶべし」



「それ習い難く忘れ易しは、音声の浮才

 また学び易く忘れ難しは、書筆の博芸」













(了)






ソース:致知2013年7月号より
「『実語教』で生き方を学んできた日本人 齋藤孝」

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