2013年7月16日火曜日

科学は「破壊」か「建設」か 岡潔




「人間の建設」より岡潔の言葉



何しろいまの理論物理学のようなものが実在するということを信じさせる最大のものは原子爆弾とか水素爆弾をつくれたということでしょうか。

ところが、破壊というものは、いろいろな仮説それ自体がまったく正しくなくても、それに頼ってやったほうが幾分利益があればできるのです。もし建設が一つでもできるというなら認めてやってよいのですが、建設はなにもしていない。

だから、いま考えられているような理論物理があると仮定させるものは破壊であって建設じゃない。破壊だったら相似的な学説がなにかあればできるのです。建設をやって見せてもらわなければ、論より証拠とは言えないのです。



だいたい自然科学で今できることと言ったら、一口に言えば破壊だけでして、科学が人類の福祉に役立つとよく言いますが、その最も大きな例は、進化論はべつにして、たとえば人類の生命を細菌から守るというようなことでしょう。しかしそれも実際には破壊によってその病原菌を死滅させるのであって、建設しているのではない。

私が子供のとき、葉緑素はまだつくれないと習ったのですが、多分いまでも葉緑素はつくれないのです。一番簡単な有機化合物でさえつくれないようでは、建設ができるとは言えない。



いまの機械文明を見てみますと、機械的操作もありますが、それよりいろいろな動力によってすべてが動いている。石炭、石油。これはみなかつて植物が葉緑素によってつくったものですね。それを掘り出して使っている。

ウラン鉱は少し違いますけれども、原子力発電などといっても、ウラン鉱がなくなればできない。そしてウラン鉱は、このまま掘り進んだら、すぐになくなってしまいそうなものですね。そういうことで機械文明を支えているのですが、やがて水力電気だけになると、どうしますかな。自動車や汽船を動かすのもむつかしくなります。

つまりいまの科学文明などというものは、殆どみな借り物なのですね。自分でつくれるなどというものではない。だから学説がまちがっていても、多少そういうまじないを唱えることに意味があればできるのです。建設は何もできません。
いかに自然科学だって、少しは建設もやってみようとしなければいけませんでしょう。やってみてできないということがわかれば、自然を見る目も変わるでしょう。





引用:「人間の建設 (新潮文庫) 」岡潔・小林秀雄 P.55〜57

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