2016年4月13日水曜日

赤貧洗うがごとし [志賀潔]



話:土門拳





志賀博士のお宅は、仙台から上り一時間、常磐線新地駅で降りて、浜づたいに北へ一里、小高い丘の松林の中にポツンとあった。乳房を垂れた山羊が一匹、松の根方につながれて、鳴いていた。

志賀博士は、丸顔の小さなお爺さんだった。村夫子(そんぷうし)然たるモンペをはいていられたので、余計小さく見えた。自分で修繕した眼鏡をかけてポール・ド・クルーフの『細菌の狩人』を読んでいられた。僕たちの突然の来訪を非常に喜ばれて、とっときの煙草などの封を切って、すすめられるのだった。病身の息子さんと、その奥さんと、三人のお孫さんが一緒に暮していられた。

随分貧しい暮しのように見受けられた。障子一面に新聞紙が貼ってあった。つまり、障子紙の代りに新聞紙を使ってあるのだった。だから部屋が重苦しく暗かった。僕は撮影の旅で、方々の農村も歩いたが、こんなにひどい障子は初めてだった。






志賀博士が明治30年(1897)に赤痢菌を発見して以来、今日まで人類が受けた恩恵は、決して少なくない筈である。しかもここに、その発見者は、赤貧洗うが如き生活に、余生を細らせているのである。僕たちはひどく矛盾を感じないわけにはいかなかった。

博士は僕たちが所望したので、文化勲章を見せて下すったが、勲章というものは凡そ貧乏臭さのないものだけに、ボロボロの畳の上で見ると、その金銀のあでやかさも、何かそらぞらしいものに思えた。現在、博士は、色々と名誉職に就いていられるが、収入としては、学士院会員の年金だけしかないのだった。

「自分の選んだ学問を通じて人類の福祉に貢献する事。それだけである。而して自分の五十年の仕事は貧しいながらその為の捨石にはなり得たであろう。これが私の自らひそかに慰めとする所である」

と博士は「私の信条 」に書いていられるが、博士のような人に対して、僕として、それで済むわけのものでない。







その日の夕暮れ、僕たちは博士一家の人々と、丘の上と下で、手を振りながら別れを告げた。お孫さんたちが、いつまでも小さな手を振っているのが、何か切なかった。

やがて、それも松林の陰に見えなくなった。

僕たちは、砂地の道をポクポク歩きながら、思い思いの考えに沈んでいた。







引用:土門拳『風貌』




0 件のコメント:

コメントを投稿