2016年4月30日土曜日

「近藤勇」と土門拳



話:長谷川如是閑


主観性と客観性


写し手の主観性や、カメラの機械性が踊りを踊っている写真を私は好まない。

文楽の人形使いは、人形を躍らせるが、自分は踊らない。見せるものは人形であって、人形使いではないからである。







写真も同じわけで、写し手の主観性の優秀さは、いかに客観性を示すかにかかっているのである。

土門拳君の写真は、優れた主観の眼をもっていると同時に、われわれの平凡な主観の眼を盗み取ったかと思われるような眼をもっている。

達人の口から聞く平凡な言葉の味、

そういったものが、土門君の写真にはあると思った。










話:土門拳





肖像写真にかぎらず、いい写真というものは、写真家の主観に感銘するのではなくて、写真化されたところの、モチーフの真実が見るものの胸を打つのである。つまり写真におけるリアリティの問題である。





モチーフのリアリティをつかむためには、総ての機械的な技術の条件を、写真家の主観によらずに、モチーフの持つ客観的な条件に至上命令権を与えること、

「三本の皺のあるおでこ」は、三本の皺のあるおでことして、決して三本の皺を二本にしたり、ないものにしたりすることではなしに、ライトを考えなければならないということにする。

「尖った頬」も、尖った頬なりにすらりと瓜実の頬にするということなしに、カメラ・アングルを決定しなければならない。



社会的に写真が最も大事な条件は、その写真における写真家の主観的な解釈ではなしに、その写真がAならAという男の写真であるということである。

いわば路傍の水たまりが、空の電線や流れる雲を写すように、

Aという男の顔が写っていることが大事なのである。

つまり写真家の主観を一切ぬきにして、Aという男のつめたい機械的な記録であればあるほど、その一枚の写真の価値は深く広いということである。





幕末頃の写真に新撰組のテロリスト、近藤勇の全身座像がある。

虎徹であろうか、長刀を左膝に引きよせて、神経質な顔でこちらを睨みつけているその写真は、このテロリストの風貌を今日に伝えてあますところのない立派な肖像写真である。







この近藤勇の肖像を誰が撮ったかぼくは知らないが、これを撮った人にせよ、あるいはナダールにせよ、写真初期の肖像写真は、総てが実に優れたリアリスティックな肖像写真であることは、今日のぼく達に深く考えさせるものがある。

それは一体なぜであろうか。



写真術発明の初期においては、レンズも感光材料も非常に幼稚で不便なものだった。

当時の写真家はもちろん、時代の尖端を行く進歩的な知識人だったが、モチーフたる人物に対する解釈をどう写真化するかというよりは、何よりもまず写るか写らないかということが一大事だった。何とかして写そうという機械的な科学的な操作だけでせい一杯だった。

写される方も自分の姿を写真として残そう、写されようとしてむきになっていた。されば近藤勇のように、虎徹を膝に引きよせて何十秒も息を殺して、レンズを睨みつけていたのだった。

主観とか解釈とかそういう抹消的な思いつきが問題ではなく、撮る者も撮られるものも、写るか写らぬか、つまり記録という機械的、技術的操作の中に一体となってしがみついていたわけだった。



像はすなわち形である。つまりその生きた姿を、生きた形を如何に残すか、ということで必死だったわけだった。

明治頃、写真を撮られると寿命が縮まるという俗説が生まれたのも、写真というものが、生きた姿をそのままに写し撮るということ、それだけにまた撮られた者の生きた姿が、つまりは生命がうすれるという恐怖をあたえたにちがいなかった。

撮る者、つまり写真家の主観的な解釈などというものは、問題にすらなかった。写真術発明の初期においては、リアリズム以外に写真というものはあり得なかったのである。








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