2015年10月30日金曜日

フンドシの霊力か[玄侑宗久]



話:玄侑宗久
サンショウウオの明るい禅



ふんどしの霊力


私は高校以来、下着は褌(ふんどし)しかつけたことがない。それがどうしたと言われそうだが、これから書くことはそんな褌(ふんどし)慣れした私でも驚いたという褌(ふんどし)の話。






さて驚いたというのは、厄払いのため、日本三大奇祭の一つといわれる会津柳津(やないづ)の裸祭りに行ったときのことだ。1月7日のそのお祭りには、毎年お経をあげる僧侶として拝請(はいしょう)していただくのだが、その年は厄年なので裸になって鰐口(わにぐち)の前の綱をよじ登ることになった。何人かの同級生たちも一緒に参加した。



数組の夫婦で酒を飲みながら夕食をとり、さて褌(ふんどし)を締める段になったのだが、

「神聖な儀式のための褌(ふんどし)であるから、熟練者に締めてもらえ」

という。大勢の男たちが数珠つなぎに登るから、

「未熟な緩い締め方では途中で外れ、失敬になる」

というのだ。



中居さんに言われた部屋に行ってみると、熟練者といわれる人も大勢の連れと飲んでいた。しかし気軽に引き受けてくれ、当たり前のことのように言った。

「はいはい、じゃあ全部脱いで」

女性も混じった大勢の中で全裸になり、回転しながら締込(しめこみ)をしてもらったのも未曾有(みぞう)のことだが、じつはもっと驚くべきことが、その後で起こった。



頭がクラクラするくらい緊(きつ)く締められ、思わず裸足の足を爪先立ちにして雪の道を早足に進み、石段を登る。

その間、何が起こったのか?

石段を登りきって習(なら)わしどおり、大きな手水鉢(ちょうずばち)に身を浸したが、

「ぬるい」

そして本堂の綱も、女房の計測によれば「8秒」で登りきってしまった。夕方試しに登りかけた時には、まったく登れなかったのに、である。



あれは一体なんだったのか?

昔から褌(ふんどし)

「締めれば締めるほど神に近づく霊力を発揮する」

という。今となっては、あの神業(かみわざ)のような勇姿が「褌(ふんどし)の霊力」だったとしか思えないのである。










引用:玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅




2015年10月29日木曜日

「ああ、そうだったかなぁ」 [白隠さん]



話:玄侑宗久
サンショウウオの明るい禅






それは白隠(はくいん)さんがすでに全国行脚を終え、静岡県の原の松陰寺に落ち着いてからのことだ。墨跡を無数に書き、さまざまな方便を用いながら無数の男女に禅の指導をしていた白隠さんには、多くの信者もできていた。



ある大店(おおだな)の商家の主人もそうした信者の一人だったのだが、あるとき娘のお腹(なか)が大きくなってきたことに気づき、

「いったい誰の子だ?」

と問い詰めたらしい。きっと娘には、正直に言えない事情があったのだろう。黙っていては許されそうにないので、

「白隠さんの子です」

と呟いた。このときの父親のショックはいかばかりだったことか、想像を絶する。



ともあれ父親は娘のお腹が膨らみきって子供が生まれるのを待ち、その子を連れてまっすぐ松陰寺に怒鳴りこんだ。おそらく

「裏切られた」
「人でなし」
「坊主の皮をかぶったオオカミ」

など、私の想像をはるかに超える言葉をぶつけたのだろう。

「身に覚えがあるだろう」

と詰め寄られた白隠さんは、ひとこと呟いた。

「ああ、そうだったかなぁ」

このいい加減な言葉に、父親はさらに怒ったにちがいない。しかし、はっきり否定しないわけだから当然認めたとみなし、父親は子供をお寺に置いて帰ってしまった。



それからの白隠さんは、掃除をするにも法要するにも子供連れ。托鉢(たくはつ)に出るときもお寺に置いていくわけにはいかず、おぶって歩いたらしい。当然、檀信徒にも噂は広まり、できかけた信用も地に落ちたのではないだろうか。

しかし母親はさすがに我が子のことが気にかかる。物陰からその様子を見ていた若い母親は、耐えられなくなって父親に本当のことを告白したのである。

「本当は白隠さんの子供なんかじゃない」

そう聞かされた父親の動転ぶりも、計り知れない。しかし、あわてふためきながらも、ともかく父親は娘を連れて白隠さんのところへ謝りにいった。



土下座して詫びながら、事情を話す父娘。そして父親は、どうして本当のことをおっしゃってくださらなかったのかと、問いかけもしただろう。

「娘が告白しなければ、あなたは一生その子を自分の子として育てるおつもりだったのですか?」

真剣なその問いに、白隠さんはまたも一言。

「ああ、そうだったかなぁ」









引用:玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅




狭い路地を、馬が走る [中国語]



胡同里 跑马
胡同で馬が走る

直来直去
一直線に行ったり来たり


NHKラジオ レベルアップ中国語 2015年 10 月号より


胡同(フートン)”は、本来の漢字では”衚衕”と書き、北京の古い町並みの中に今のところどころ残っている「細長い路地」を指す。”胡同(フートン)”には、灰色の瓦とレンガでつくられた伝統的な家屋が立ち並ぶ。

狭い長い路地で馬を走らせることは、今も昔もない。これはユーモラスな比喩である。もし”胡同(フートン)”で馬を走らせたら、右にも左にも曲がれず一直線に行ったり戻ってきたりするしかない。

「細い道を、さっと行ってさっと帰って来るだけ」

「用を済ますのみで新しい発見とか、発展はない」

といった比喩や、

「直球勝負だけでは、勢いがあっても不器用すぎて失敗する。変化球や回り道など、器用に立ち回ることも必要だ」

とたしなめる場合に使う。





現在の北京市は再開発がすすみ、多くの”胡同(フートン)”が壊され、細長い路地が自動車道路に拡張され、高層ビルが建ち並んでいる。ただ地名として今も「なになに胡同(フートン)」という名称が数多く残っている。

その一方、北京市の中心部でも再開発から取り残されたエリアや、観光客用の美観地区では、今も数百年前と変わらぬ細長くて狭い”胡同(フートン)”が健在である。

ちなみに、上海の昔ながらの集合住宅が形づくる独特の都市空間は”里弄“と呼ぶ。







2015年10月28日水曜日

年をとるのは「気のせい」なのか? [玄侑宗久]



話:玄侑宗久
サンショウウオの明るい禅



年をとるのは気のせい?


アメリカという国には変わった研究をする人々がいるものだ。それはいろんな分野で感じることだが、先日もある本に書かれていた研究内容に驚き、そして笑ってしまった。

医師を中心にしたその人々の証明しようとしている仮説は、ヒトが老化するのは「気のせい」ではないかということだ。その実証のために、彼らはたしか80代のヒト50人に集まってもらい、50日間、彼らが20代だった時の環境で過ごしてもらったらしい。室内の調度やカーテンは勿論、ラジオやテレビを点けてもその当時の番組が流れる仕組みである。同年代の人々の共同生活という要素で楽しさも加わったかもしれない。

そうして50日後、実験に入るまえに調べた項目と同様の診察をおこなう。彼らの認識によれば、年齢が隠しようもなく現れるのは何より「皮膚圧」だという。むろん血圧とか血糖値とか、細かい調査もなされる。その結果、皮膚圧が20 代並みに戻っていたヒトが、なんと30%を超えたというのである。驚き、笑ってしまったという私の反応が解っていただけただろうか。



そのあと私が思ったのは、修行道場のことだった。

道場に入るときは27歳でありながら30代半ばに見られた私だが、3年後に出てきてみると逆に20代半ばに見てもらえた。考えてみると、道場では年齢が一切考慮されない。私を叩く先輩のほとんどは年下だったし、60代で入門してきた後輩は容赦なく年下の私が叱らなければならなかった。いわば年齢という概念のない隔離社会に暮らし、年齢相応よりも多い運動量をこなすうちに、そんなことが起こったのではなかっただろうか。

普段のわれわれの生活では、年齢というのはかなり深い無意識に属していて逃れにくい。対面した相手の年齢も無意識に測るし、「もう60だから雑巾がけはしなくていいだろう」とか、「そろそろ30なのだから結婚しなければ」など。つまりほとんど無意識に、われわれは社会で相応に生きるため、年齢に関する明瞭なイメージをもってしまっているのである。



一切は唯だ心が造る

とは『華厳経』の言葉だが、われわれは確かに自分のイメージどおりに生きているのかもしれない。だから平均寿命の知識なども、おそらく深い無意識は見逃さないのだ。「そろそろ死んでもいい頃合いだ」と、深いところから語りかけられてしまうのではないだろうか。

元気に長生きするというのは、そうした意識をもたない技術と関係している気がする。病気も、意識してから否定するのではなく、意識さえしないほうがいい。むしろ元気だけを意識するのである。ビクビクしている生徒を先生は指したがる。病気や老化の神様がいたとしたら、そういう人を呼びだすに違いない。





引用:玄侑宗久『サンショウウオの明るい禅




大空襲と「不死身感」 [マルコム・グラッドウェル]



話:マルコム・グラッドウェル
逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密






「爆撃が怖くなくなる」理由


第二次世界大戦の気配が濃厚になってきたころ、イギリス政府には大きな懸念があった。

In the years leading up to the Second World War, the British government was worried. 

戦争になったら、ドイツ空軍がロンドンに猛攻を仕掛けるだろう。それを止めるすべはない。

If, in the event of war, the German Air Force launched a major air offensive against London, the British military command believed that there was nothing they could do to stop it.

軍事戦略家のバジル・リデル=ハートは、ドイツ軍による空襲が始まれば、最初の一週間でロンドン市民の死傷者は25万人にのぼると推測した。

Basil Liddell Hart, one of the foremost military theorists of the day, estimated that in the first week of any German attack, London could see a quarter of a million civilian deaths and injuries.

ウィンストン・チャーチルは、

「ロンドンは敵の格好の標的であり、猛獣が舌舐めずりをする丸々と肥えた立派な牛(a kind of tremendous, fat, valuable cow)だ」

と表現し、30〜400万人が地方に疎開すると計算した。

Churchill described London as 

"the greatest target in the world, a kind of tremendous, fat, valuable cow, tied up to attract the beast of prey."

He predicted that the city would be so helpless in the face of attack that between three and for million Londoners would flee to the countryside.






開戦前夜の1937年、イギリス軍司令部が不吉な報告書を発表する。

In 1937, on the eve of the war, the British military command issued a report with the direst prediction of all:

ドイツ軍の空襲が継続的に行われると、死者は60万人、負傷者は120万人になるというものだ。

a sustained German bombing attack would leave six hundred thousand dead and 1.2 million wounded and create mass panic in the streets.

ロンドン市民は恐怖のあまり職場を放棄して、工業生産が立ちいかなくなるだろう。

People would refuse to go to work. Industrial production would grind to a halt.

政府はロンドンの地下に防空壕網を張りめぐらせることを検討したが、すぐにあきらめた。防空壕に入った市民が、二度と出てこなくなると思ったからだ。

The army would be useless against the Germans because it would be preoccupied with keeping order among the millions of panicked civilians. The country's planners briefly considered building a massive network of underground bomb shelters across London, but they abandoned the plan out of a fear that if they did, the people who took refuge there would never come out.

空襲の恐怖で心理面に打撃を受ける人が続出することが予想され、郊外に精神科病院がいくつか新設された。

They set up several psychiatric hospitals just outside the city limits to handle what they expected would be a flood of psychological casualties. "There is every chance," the report stated, "that this could cost us the war."



1940年秋、恐れていたことがいよいよ現実になった。

In the fall of 1940, the long-anticipated attack began.

ドイツ空軍の爆撃機がロンドン上空に来襲し、高性能爆弾と焼夷弾を投下したのだ。なかでも最初の空襲は57日間続いた。

Over a period of eight months -beginning with fifty-seven consecutive nights of devastating bombardment- German bombers thundered across the skies above London, dropping tens of thousands of high-explosive bombs and more than a million buildings were damaged or destroyed.

死者は4万人、負傷者は4万6000人。損壊した建物は100万棟になり、とりわけイースト・エンドは壊滅的な被害を受けた。

In the city's East End, entire neighborhoods were laid waste. 

すべてはイギリス政府の予想どおりだった。たったひとつ、ロンドン市民の反応を除いては。

It was everything the British government officials had feared -except that every one of their predictions about how Londoners would react turned out to be wrong.







人びとはパニックに陥らなかった。

The panic never came.

郊外に建てられた精神科病院は閑古鳥が鳴いていたので、軍事施設に転用された。

The psychiatric hospitals built on the outskirts of London were switched over to military use because no one showed up.

女性と子どもは多くが疎開したが、市内に残らざるをえない人たちはそのまま残った。

Many women and children were evacuated to the countryside as the bombing started. But people who needed to stay in  the city by and large stayed.

政府が驚いたのは、市民が空襲に勇敢に立ちむかう姿もさることながら、彼らが見せる無頓着に近い不思議な態度だった。

As the Blitz continued, as the German assaults grew heavier and heavier, the British authorities began to observe -to their astonishment- not just courage in the face of the bombing but something closer to indifference.



イギリスのある精神科医は終戦後すぐの時期にこう書いている。

One English psychiatrist wrote just after the war ended:

1940年10月、数度にわたる空襲を受けた直後のサウスイーストを訪れる機会があった。

In October 1940 I had occasion to drive through South-East London just after a series of attacks on that district.



100メートルごとに、爆弾でできた大きな穴や、住宅や商店の廃墟が現れる。空襲警報が鳴りだし、成りゆきを見守った。

Every hundred yards or so, it seemed, there was a bomb crater or wreckage of what had once been a house or shop. The siren blew its warning and I looked to see what would happen.

子どもの手を引いて歩いていた修道女が先を急ぐ。だが彼女と私のほかは、誰も警報に気づいていないかのようだった。

A nun seized the hand of a child she was escorting and hurried on. She and I seemed to be the only ones who had heard the warning.

少年たちは通りで遊び、買い物客は値段交渉に余念がない。警官はいかめしい面もちで交通整理を続け、自転車は死の恐怖も交通ルールもおかまいなく疾走していく。

Small boys continued to play all over the pavements, shoppers went on haggling, a policeman directed traffic in majestic boredom and the bicyclists defied death and the traffic laws.

私の見るかぎり、空を見上げる者は皆無だった。

No one, so far as I could see, even looked into the sky.


そんなバカなと思うだろう。

I think you'll agree this is hard to believe.

戦時下である。

The Blitz was war.

爆弾が炸裂して、四方八方に飛びちる破片が直撃したら即死だ。焼夷弾が毎夜あちこちを燃えあがらせ、100万人が住む家を失っていた。

The exploding bombs sent deadly shrapnel flying in every direction. The incendiaries left a different neighborhood in flames every night. More than a million people lost their homes.

間に合わせの防空壕となった地下鉄駅には毎夜大勢の人が詰めかけ、外では爆撃機の轟音や爆発音、高射砲の発射音が響き、救急車や消防車のサイレンがひっきりなしに聞こえてきた。

Thousands crammed into makeshift shelters in subway stations every night. Outside, between the thunder of planes overhead, the thud of explosions, the rattle of anti-aircraft guns, and the endless wails of ambulances, fire engines, and warning sirens, the noise was unrelenting.

1940年9月12日の夜に実施されたある調査では、ロンドン市民の3分の1が前夜は一睡もできず、もう3分の1が眠れたのは4時間未満だったと答えた。

In one survey of Londoners, on the night of September 12, 1940, a third said that they had gotten no sleep the night before, and another third said they got fewer than four hours.

これがもしニューヨークだったら? 自分の働くオフィスビルが瓦礫と化す生活が2ヶ月半ずっと続く生活に耐えられるだろうか?

Can you imagine how New Yorkers would have reacted if one of their office towers had been reduced to rubble not just once but every night for two and a half months?








ロンドン市民のこの冷静な態度は、少々のことでは動じない「ジョン・ブル魂」の発露と言うこともできる。

The typical explanation for the reaction of Londoners is the British "stiff upper lip" -the stoicism said to be inherent in the English character. (Not suprisingly, this is the explanation most favored by the British themselves.)

しかし他の国でも、同じように激しい空襲下で住民は平然としていることがわかってきた。つまり空襲は、当初想定されていたような打撃を与えていないということだ。

But one of the things that soon became clear was that it wasn't just the British who behaved this way. Civilians from other countries also turned out to be unexpectedly resilient in the face of bombing. Bombing, it became clear, didn't have the effect that everyone had thought it would have.

この謎を解明したのが、カナダの精神科医J.T.マカーディとその著書『モラールの構造(The Structure of Morale)』だった。

It wasn't until the end of the war that the puzzle was solved by the Canadian psychiatrist J. T. MacCurdy, in a book called The Structure of Morale.







マカーディによると、爆弾を落とされた人は3つのグループに分かれるという。

MacCurdy argued that when a bomb falls, it divides the affected population into three groups.

ひとつは「死ぬ人」。

The first group is the people willed.

空襲体験で最悪の被害をこうむるグループだ。当たり前だが。

They are the ones for whom the experience of the bombing is -obviously- the most devastating. 

このグループに関して、マカーディはこう書いている。

But as MacCurdy pointed out (perhaps a bit callously),

「共同体のモラールは生存者の反応に左右される。ゆえに死者は関与しない。死体は走りまわってパニックを拡散しないのである」

"the morale of the community depends on the reaction of the survivors, so from that point of view, the killed do not matter. Put this way the fact is obvious, corpses do not run about spreading panic."



次が「ニアミス・グループ」である。

The next group he called the near misses:

爆風を受け、目の前で建物が破壊され、死体の山に恐れおののき、自らも負傷しながらも生命は失わなかったグループである。彼らは強烈な印象を受けている。

They feel the blast, they see the destruction, are horrified by the carnage, perhaps they are wounded, but they survive deeply impressed.

ここでの「印象」は空襲にまつわる恐怖反応を補強するものであり、その結果「ショック」を引き起こすこともある。この「ショック」も意味の広い言葉で、茫然自失、感覚麻痺、神経過敏、それに目にした恐怖が頭から離れないといったことがすべて含まれる。

"Impression" means, here, a powerful reinforcement of the fear reaction in association with bombing. It may result in "shock," a loose term that covers anything from a dazed state or actual stupor to jumpiness and preoccupation with the horrors that have been witnessed.



第3は「リモートミス・グループ」。

Third, he said, are the remote misses.

サイレンは聞こえるし、敵の爆撃機が上空を飛ぶのを見たし、爆発音も耳に飛び込んでくる。

These are the people who listen to the sirens, watch the enemy bombers overhead, and hear the thunder of the exploding bombs.

でも爆弾が落ちるのは通りをずっと行った先か、隣のブロックだ。

But the bomb hits down the street or the next block over. 

これを2度、3度と繰りかえすうちに、彼らが空襲体験で抱く感情はニアミス・グループとは正反対になる。

And for them, the consequences of a bombing attack are exactly the opposite of the near-miss group. 

それは「どこか不死身感の漂う興奮」だとマカーディは指摘する。

They survived, and the second or third time that happens, the emotion associated with the attack, MacCurdy wrote, "is a feeling of excitement with a flavour of invulnerability."

ニアミスは心身に深い傷を残すが、リモートミスは無敵感覚を植えつけるのである。

A near miss leaves you traumatized. A remote miss makes you think you are invincible.



大空襲をくぐりぬけたロンドン市民の日記や回想には、こうした現象を裏づける記述がたくさんある。

In diaries and recollections of Londoners who lived through the Blitz, there are countless examples of this phenomenon. Here is one:

初めて空襲警報が鳴ったときは、子どもたちを連れて公園の防空壕に逃げこみました。「このまま死んでしまうにちがいない」と思っていました。でも何ごともなく終わって防空壕を出たときは、「何があっても死なない」と思うようになっていました。

When the first siren sounded I took my children to our dug-out in the garden and I was quite certain we were all going to be killed. Then the all-clear went without anything having happened. Ever since we came out of the dug-out I have felt sure nothing would ever hurt us.

別の女性は、爆発で家が激しく揺れたときのことをこう回想している。

Or consider this, from the diary of a young woman whose house was shaken by a nearby explosion:

ベッドに横たわったまま、何ともいえない満ちたりた勝利感を味わっていました。「いま爆撃されてる!」そう何度もつぶやいていました。まるでおろしたてのドレスのぐあいを確かめるように。その夜はたくさんの人が死んだり、けがをしたりしました。だから不謹慎かもしれないんですが、あのときほど純粋で完全無欠な幸福感を味わったことはありません。

I lay there feeling indescribably happy and triumphant. "I've been bombed!" I kept on saying to myself, over and over again -trying the phrase on, like a new dress, to see how it fitted. "I've been bombed!..I've been bombed -me!" It seems a terrible thing to say, when many people were killed and injured last night; but never in my whole life have I ever experienced such pure and flawless happiness.



なぜロンドン市民は大空襲にもひるまなかったのだろう?

So why were Londoners so unfazed by the Blitz? 

ロンドンは800万人以上が暮らす大都会だ。それで死者4万人、負傷者4万6000人ということは、ニアミスで心身に傷を負った人よりも、リモートミスで強烈な高揚感を覚えた人のほうがはるかに多かったと言える。

Because forty thousand deaths and forty-six thousand injuries -spread across a metropolitan area of more than eight million people- means that there ware many more remote misses who were emboldened by the experience of being bombed than there were near misses who were traumatized by it.

マカーディは解説する。

MacCurdy went on.

私たちはただ怖がるだけではなく、怖がることを怖がってもいる。それだけに恐怖を克服すると気持ちが高揚する。

We are all of us not merely liable to fear. We are also prone to be afraid of being afraid, and the conquering of fear produces exhilaration....

空襲になったらパニックに陥ると思っていたのに、実際の場面では落ちつきはらった態度を周囲に見せることができて、なおかつ無事だった。

When we have been afraid that we may panic in an air-raid, and when it has happened, we have exhibited to others nothing but a calm exterior and we are now safe,

事前の危惧といまの安堵感の落差が自信につながり、それが勇気の源になったのだ。

the contrast between the previous apprehension and the present relief and feeling of security promotes a self-confidence that is the very father and mother of courage.



大空襲が最も激しかったとき、ボタン工場で働いていた中年の男性は疎開の打診を受けた彼の自宅には二度も爆弾が落ちていたが、そのたびに妻ともども助かった。男性は疎開を断った。

In the midst of the Blitz, a middle-aged laborer in a button-factory was asked if he wanted to be evacuated to the countryside. He had been bombed out of his house twice. But each time he and his wife had been fine. He refused.

「こんな経験、いままでになかったし、この先も二度とない。それをみすみす見逃せというのかい? 冗談じゃない!」

"What, and miss all this?" he exclaimed. "Not for all the gold in China! There's never been nothing like it! Never! And never will be again."

同じできごとなのに、心身に深い傷を受ける人もいれば、反対に幸福感や充実感で舞いあがる人もいる。ボタン工場の男性も、爆発の衝撃で揺れる家にいた女性も、胸がわくわくしていたはずだ。

The idea of desirable difficulty suggests that not all difficulties are negative.

MacCurdy's theory of morale is a second, broader perspective on this same idea. The reason Winston Churchill and the English military brass were so apprehensive about the German attacks on London was that they assumed that a traumatic experience like being bombed would have the same effect on everyone: that the only difference between near misses and remote misses would be the degree of trauma they suffered.

But to MacCurdy, the Blitz proved that traumatic experiences can have two completely different effects on people: the same event can be profoundly damaging to one group while leaving another better off. That man who worked in a button factory and that young woman whose house was shaken by the bomb were better off for their experience, weren't they? 

どう言いつくろってもこれは事実だ。ただ、そのとき彼らのなかに恐怖心は存在しなかった。だからこそ戦時下の耐えがたい生活を乗りきることができたのかもしれない。

They were in the middle of a war. They couldn't change the fact. But they were freed of the kinds of fears that can make life during wartime unendurable.




私たちは開戦前のイギリス政府と同様、深刻な損害をもたらす不幸な出来事が、一種類の結果しか引きおこさないと思いこんでいる。

Too often, we make the same mistake as the British did and jump to the conclusion that there is only one kind of response to something terrible and traumatic.

だがそうではなく、結果にはプラスとマイナスの2種類が存在するのだ。

There isn't. There are two.









出典:
マルコム・グラッドウェル『逆転! 強敵や逆境に勝てる秘密
Malcolm Gladwell: David and Goliath: Underdogs, Misfits, and the Art of Battling Giants


2015年10月26日月曜日

前の波と、後ろの波 [中国語]



长江 后浪 推 前浪

長江の後ろの波が、前の波を押し出す

前浪 死在 沙滩上

前の波は砂浜で消える



NHKラジオ レベルアップ中国語 2015年 10月号 より〜


弟子が師匠を超えたり、後輩が先輩より立派になることを、日本語の熟語では「出藍(しゅつらん)の誉(ほま)れ」と言う。”长江后浪推前浪(長江の後ろの波が、前の波を押し出す)”という熟語はもともと「出藍の誉れ」と同様の意味だった。

だが近年は”前浪死在沙滩上(前の波は砂浜で消える)”という後半部も新たに言われるようになり、”前浪(前の波)”すなわち”乗り越えられた師匠や先輩”が競争原理で淘汰されるという現代社会の現実を、風刺とユーモアをこめて述べるときにも使う。

今日では「改革開放経済の熾烈な競争のものでは、先行するヒット商品や先輩社員も、すぐに後発組に追い越されてダメになる」というニュアンスも付加されてしまっているため、中高年が自嘲的に使う場合はよいが、若輩者が目上に向かって言う場合は、失礼にならぬよう注意を要する。


青出于蓝,而胜于蓝

藍は藍より出でて、而(しこう)して藍より勝る(『荀子』)







平安貴族と『史記』



名高良史籍

名は高し 良史(りょうし)の籍(せき)

身毀妬臣年

身は毀(こぼ)たる 妬臣(としん)の年

㬢魄懸声値

㬢魄(ぎはく)声値(せいか)に懸(かか)

爰言陵谷遷

(ここ)に陵谷(りょうこく)の遷(うつ)るを言う



すぐれた史官が編纂した典籍として『史記(しき)』の名声は高い。
ある年に嫉妬深い重臣の讒言(ざんげん)で、司馬遷(しばせん)の肉体はそこなわれたが
今では輝かしい日月の光が、その評価の上に降り注いでいる。
丘陵と渓谷とが移り変わるように、汚名も名誉に変わったのだ。


史記 ビギナーズ・クラシックス「はじめに」より〜


これは平安時代の初期、嵯峨(さが)天皇の弘仁五年(814)に成立した『凌雲集(りょううんしゅう)(日本最初の勅撰漢詩集)に収められた、賀陽豊年(かやのとよとし)「史記の竟宴(きょうえん)にして、賦(ふ)して太史公(たいしこう)が自序伝を得たり」という漢詩の末尾四句です。

当時の日本は、中国文化を摂取して国家の体制を整えることを急務とし、その一環として官人たちに漢籍の講義を聴かせていました。「竟宴(きょうえん)」とは講義の打ち上げパーティーです。パーティーでは、講義された漢籍に関係する人物や事項をテーマにした漢詩がつくられました。確かな年代はわかりませんが、おそらく弘仁年間の初めごろ、『史記』の講義が朝廷で行われ、その打ち上げパーティで豊年(とよとし)は「太史公(たいしこう)自序(じじょ)」というテーマを割り当てられて先の漢詩をつくったわけです。このころから日本で『史記』が本格的に読まれるようになりました。

それから200年ほど経つと、『史記』は平安貴族にすっかり浸透しました。清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子(まくらのそうし)』には「書(しょ)は」の書き出しで、『白氏文集(はくしもんじゅう)』などと並べて『史記』が挙げられています。『紫式部(むらさきしきぶ)日記』には、父の藤原為時(ふじわらのためとき)が弟に『史記』を講義するのを側で聞いていた紫支部が、弟よりも早く正確に暗唱したので、「この娘が男であったなら」と父を嘆かせた話がでてきます。










2015年10月25日日曜日

英語で読む「The little deaf boy, Blair」 [Napoleon Hill]



Napoleon Hill
Think and Grow Rich


...


Desire Outwits Mother Nature


As a fitting climax to this chapter, I wish to introduce one of the most unusual persons I have ever known. I first saw him twenty-four years ago, a few minutes after he was born. He came into the world without any physical sign of ears, and the doctor admitted, when pressed for an opinion, that the child might be deaf, and mute for life.

I challenged the doctor's opinion. I had the right to do so, I was the child's father. I, too, reached a decision, and rendered an opinion, but I expressed the opinion silently, in the secrecy of my own heart. I decided that my son would hear and speak. Nature could send me a child without ears, but Nature could not induce me to accept the reality of the affliction.



In my own mind I knew that my son would hear and speak.

How?

I was sure there must be a way, and I knew I would find it. I thought of the words of the immortal Emerson,

"The whole course of things goes to teach us faith. We need only obey. There is guidance for each of us, and by lowly listening, we shall hear the right word."

The right word?

Desire! 

More than anything else, I desired that my son should not be a deaf mute. From that desire I never receded, not for a second.



Many years previously, I had written,

"Our only limitations  are those we set up in our own minds."

For the first time, I wondered if that statement were true. Lying on the bed in front of me was a newly born child, without the natural equipment of hearing. Even though he might hear and speak, he was obviously disfigured for life. Surely, this was a limitation which that child had not set up in his own mind.

What could I do about it?

Somehow I would find a way to transplant into that child's mind my own burning desire for ways and means of conveying sound to his brain without the aid of ears.



As soon as the child was old enough to cooperate, I would fill his mind so completely with a burning desire to hear, that Nature would, by methods of her own, translate it into physical reality.

All this thinking took place in my own mind, but I spoke of it to no one. Every day I renewed the pledge I had made to myself, not to accept a deaf mute for a son.

As he grew older, and began to take notice of things around him, we observed that he had a slight degree of hearing. When he reached the age when children usually begin talking, he made no attempt to speak, but we could tell by his actions that he could hear certain sounds slightly.

That was all I wanted to know!

I was convinced that if he could hear, even slightly, he might develop still greater hearing capacity. Then something happened which gave me hope. It came form an entirely unexpected source.






We bought a Victrola. When the child heard the music for the first time, he went into ecstasies, and promptly appropriated the machine. He soon showed a preference for certain records, among them,

"It's a Long Way to Tipperary"






On one occasion, he played that piece over and over, for almost two hours, standing in front of the Victrola, with his teeth clamped on the edge of the case.

The significance of this self-formed habit of his did not become clear to us until years afterward, for we had never heard of the principle of "bone conduction" of sound at that time.

Shortly after he appropriated the Victrola, I discovered that he could hear me quite clearly when I spoke with my lips touching his mastoid bone, or at the base of the brain.



These discoveries placed in my possession the necessary media by which I began to translate into reality my Burning Desire to help my son develop hearing and speech. By that time he was making stabs at speaking certain words. The outlook was far from encouraging, but desire backed by faith knows no such word as impossible.

Having determined that he could hear the sound of my voice plainly, I began, immediately, to transfer to his mind the desire to hear and speak.

I soon discovered that the child enjoyed bedtime stories, so I went to work, creating stories designed to develop in him self-reliance, imagination, and a keen desire to hear and to be normal.

There was one story in particular, which I emphasized by giving it some new and dramatic coloring each time it was told. It was designed to plant in his mind the thought that his affliction was not a liability, but an asset of great value.



Despite the fact that all the philosophy I had examined clearly indicated that every adversity brings with it the seed of an equivalent advantage, I must confess that I had not the slightest idea how this affliction could ever become an asset.

However, I continued my practice of wrapping that philosophy in bedtime stories, hoping the time would come when he would find some plan by which his handicap could be made to serve some useful purpose.

Reason told me plainly, that there was no adequate compensation for the lack of ears and natural hearing equipment . Desire backed by faith, pushed reason aside, and inspired me to carry on.



As I analyze the experience in retrospect, I can see now, that my son's faith in me had much to do with the astounding results. He did not question anything I told him.

I sold him the idea that he had a distinct advantage over his older brother, and that this advantage would reflect itself in many ways.

For example, the teachers in school would observe that he had no ears, and, because of this, they would show him special attention and treat him with extraordinary kindness. They always did. His mother saw to that, by visiting the teachers and arranging with them to give the child the extra attention necessary.






I sold him the idea, too, that when he became old enough to sell newspapers, (his older brother had already become a newspaper merchant), he would have a big advantage over his brother, for the reason that people would pay him extra money for his wares, because they could see that he was a bright, industrious boy, despite the fact he had no ears.

We could notice that, gradually, the child's hearing was improving. Moreover, he had not the slightest tendency to be self-conscious, because of his affliction.

When he was about seven, he showed the first evidence that our method of servicing his mind was bearing fruit. For several months he begged for the privilege of selling newspapers, but his mother would not give her consent. She was afraid that his deafness made it unsafe him to go on the street alone.



Finally, he took matters in his own hands.

One afternoon, when he was left at home with the servants, he climbed through the kitchen window, shinnied to the ground, and set out on his own.

He borrowed six cents in capital from the neighborhood shoemaker, invested it in paper, sold out, reinvested, and kept repeating until late in the evening. After balancing his accounts, and paying back the six cents he had borrowed from his banker, he had a net profit of forty-two cents.



When we got home that night, we found him in bed asleep, with the money tightly clenched in his hand.

His mother opened his hand, removed the coins, and cried. Of all things! Crying over her son's first victory seemed so inappropriate. My reaction was the reverse. I laughed heartily, for I knew that my endeavor to plant in the child's mind an attitude of faith in himself had been successful.

His mother saw, in his first business venture, a little deaf boy who had gone out in the streets and risked his life to earn money. I saw a brave, ambitious, self-reliant little business man whose stock in himself had been increased a hundred percent, because he had gone into business on his own initiative, and had won.



The transaction pleased me, because I knew that he had given evidence of a trait of  resourcefulness that would go with him all through life. Later events proved this to be true.

When his older brother wanted something, he would lie down on the floor, kick his feet in the air, cry for it, and get it. When the "little deaf boy" wanted something, he would plan a way to earn the money, then buy it for himself. He still follows that plan!

Truly, my own son has taught me that handicaps can be converted into stepping stones on which one may climb toward some worthy goal, unless they are accepted as obstacles, and used as alibis.



The little deaf boy went through the grades, high school, and college without being able to hear his teachers, excepting when they shouted loudly, at close range. He did not go to a school for the dear. We would not permit him to learn the sign language. We were determined that he should live a normal life, and associate with normal children, and we stood by that decision, although it cost us many heated debates with school officials.

While he was in high school, he tried an electrical hearing aid, but it was of no value to him; due, we believed, to a condition that was disclosed when the child was six, by Dr. J. Gordon Wilson, of Chicago, when he operated on one side of the boy's haed, and discovered that there was no sign of natural hearing equipment.

During his last week in college, (eighteen years after the operation), something happened which marked the most important turning-point of his life. Through what seemed to be mere chance, he came into possession of another electrical hearing device, which was sent to him on trial. He was slow about testing it, due to his disappointment with a similar device. Finally he picked the instrument up, and more or less carelessly, placed it on his head, hooked up the battery, and lo! as if by a stroke of magic, his lifelong desire for normal hearing became a reality! For the first time in his life he heard practically as well as any person with normal hearing.

"God moves in mysterious ways, His wonders to perform."



Overjoyed because of Changed World which had been brought to him through his hearing device, he rushed to the telephone, called his mother, and heard her voice perfectly.

The next day he plainly heard the voices of his professors in class, for the first time in his life! Previously he could hear them only when they shouted, at short range.

He heard the radio. He heard the talking pictures. For the first time in his life, he could converse freely with other people, without the necessity of their having to speak loudly. Truly, he had come into possession of a Changed World.



We had refused to accept Nature's error, and, by persistent desire, we had induced Nature to correct that error, through the only practical means available.

Desire had commenced to pay dividends, but the victory was not yet complete. The boy still had to find a definite and practical way to convert his handicap into an equivalent asset.

Hardly realizing the significance of what had already been accomplished, but intoxicated with the joy of his newly discovered would of sound, he wrote a letter to the manufacturer of the hearing-aid, enthusiastically describing his experience. Something in his letter; something, perhaps which was not written on the lines, but back of them; caused the company to invite him to New York.



When be arrived, he was escorted through the factory, and while talking with the Chief Engineer, telling him about his changed world, a hunch, an idea, or an inspiration, call it what you wish, flashed into his mind. It was this impulse of thought which converted his affliction into an asset, destined to pay dividends in both money and happiness to thousands for all time to come.

The sum and substance of that impulse of thought was this:

It occurred to him that he might be of help to the millions of deafened people who go through life without the benefit of hearing devices, if he could find a way to tell them the story of his Changed World.

Then and there, he reached a decision to devote the remainder of his life to rendering useful service to the hard of hearing.



For an entire month, he carried on an intensive research, during which he analyzed the entire marketing system of the manufacturer of the hearing device, and created ways and means of communicating with the hard of hearing all over the world for the purpose of sharing with them his newly discovered "Changed World."

When this was done, he put in writing a two-year plan, based upon his findings. When he presented the plan to the company, he was instantly given a position, for the purpose of carrying out his ambition.

Little did he dream, when he went to work, that he was destined to bring hope and practical relief to thousands of deafened people who, without his help, would have been doomed forever to deaf mutism.



Shortly after he became associated with the manufacturer of his hearing aid, he invited me to attend a class conducted by his company, for the purpose of teaching deaf mutes to hear, and to speak.

I had never heard of such a form of education, therefore I visited the class, skeptical but hopeful that my time would not be entirely wasted.

Here I saw a demonstration which gave me a greatly enlarged vision of what I had done to arouse and keep alive in my son's mind the desire for normal hearing. I saw deaf mutes actually being taught to hear and to speak, through application of the self-same principle I had used, more than twenty years previously, in saving my son from deaf mutism.



Thus, through some strange turn of the Wheel of Fate, my son, Blair, and I have been destined to aid in correcting deaf mutism for those as yet unborn, because we are the only living human beings, as far as I know, who have established definitely the fact that deaf mutism can be corrected to the extent of restoring to normal life those who suffer with this affliction.

It has been done for one; it will be done for others.

There is no doubt in my mind that Blair would have been a deaf mute all his life, if his mother and I had not managed to shape his mind as we did. The doctor who attended at his birth told us, confidentially, the child might never hear or speak.



A few weeks ago, Dr. Irving Voorhees, a noted specialist on such cases, examined Blair very thoroughly. He was astounded when he learned how well my son now hears, and speaks, and said his examination indicated that "theoretically, the boy should not be able to hear at all." But the lad does hear, despite the fact that X-ray pictures show there is no opening in the skull, whatsoever, from where his ears should be to the brain.

When I planted in his mind the desire to hear and talk, and live as a normal person, there went with that impulse some strange influence which caused Nature to become bridge-builder, and span the gulf of silence between his brain and the outer world, by some means which the keenest medical specialists have not been able to interpret.

It would be sacrilege for me to even conjecture as to how Nature performed his miracle. It would be unforgivable if I neglected to tell the world as much as I know of the humble part I assumed in the strange experience. It is my duty, and a privilege to say I believe, and not without reason ,that nothing is impossible to the person who backs desire with enduring faith.



Verily, a burning desire has devious ways of transmuting itself into its physical equivalent. Blair desired normal hearing; now he has it! He was born with a handicap which might easily have sent one with a less defined desire to the street with a bundle of pencils and a tin cup. That handicap now promises to serve as the medium by which he will render useful service to many millions of hard of hearing, also, to give him useful employment at adequate financial compensation the remainder of his life.

The little "white lies" I planted in his mind when he was a child, by leading him to believe his affliction would become a great asset, which he could capitalize, has justified itself. Verily, there is nothing, right or wrong, which belief, plus burning desire, cannot make real. These qualities are free to everyone.



In all my experience in dealing with men and women who had personal problems, I never handled a single case which more definitely demonstrates the power of desire. Authors sometimes make the mistake of writing of subjects of which they have but superficial, or very elementary knowledge. It has been my good fortune to have had the privilege of testing the soundness of the power of desire, through the affliction of my own son.

Perhaps it was providential that the experience came as it did, for surely no one is better prepared than he, to serve as an example of what happens when desire is put to the test. If Mother Nature bends to the will of desire, is it logical that mere men can defeat a burning desire?

Strange and imponderable is the power of the human mind! We do not understand the method by which it uses every circumstance, every individual, every physical thing within its reach, as a means of transmuting desire into its physical counterpart. Perhaps science will uncover this secret.



I planted in my son's mind the desire to hear and to speak as any normal person hears and speaks. That desire has now become a reality. I planted in his mind the desire to convert his greatest handicap into his greatest asset. That desire has been realized.

The modus operandi by which this astounding result was achieved is not hard to describe. It consisted of three very definite facts;

first, I mixed faith with the desire for normal hearing, which I passed on to my son.

Second, I communicated my desire to him in every conceivable way available, through persistent, continuous effort, over a period of years.

Third, he believe me!

...







〜ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』田中孝顕訳より〜
註:必ずしも原文に忠実な訳文ではない。とくに後半部分はかなり端折られている。


ここでの話のまとめとして、私が出会った優れた人物(most unusual person)を紹介しよう。

私が初めて彼と出会ったのは、彼が生まれて数分後のことだった。この赤ん坊には耳がなかった。医者は「一生、耳と言葉は不自由のままでしょう(The child might be deaf, and mute for life)」と言った。だが私はこの医者の診断を信じなかった。信じない権利が私にはあると思ったからだ。なぜなら私がその子の父親であったからである。

私は心の中で「息子は必ず聴覚を取り戻し、話せるようになる(my son would hear and speak)」と確信していた。必ずその方法があるはずだと思った。なぜそう私が確信したのか、合理的な説明はつかないが、私は何とかしてその方法を見つけ出そうと思った。そのとき私はエマーソン(Emerson)の言葉を思い浮かべていた。

自然の法則は、私たちになすべきことを教えてくれる。
The whole course of things goes to teach us faith.
ただ素直に従うことだ。
We need only obey.
人にはそれぞれの方法で生きる手立てがある。
There is guidance for each of us.
耳をすませて静かに聞けば、正しい法則があなたにも聞こえてくるだろう。 And by lowly listening, we shall hear the right word.

その「正しい法則(the right word)」こそ、”願望(desire)”なのである。



私は息子ブレイアが「決して耳の聞こえない人間ではない(my son should not be a deaf mute)」ということを強い願望として頭に刻み込んだ。私のこの願望は、その後一度として私の中から消えたことはなかった。私は心の中でブレイアが回復すると確信していたのである。

「ブレイアは絶対に耳が聞こえるようになるのだ」と毎日繰り返し自分に言い聞かせた。

少し大きくなるにつれて、ブレイアにはほんのわずかとはいえ、その表情の動きによって、聴力(hearing capacity)があることがわかった。しかし私には、とりあえずそれで十分だった。もし少しでも聞きとることが可能でああるのなら、その能力を伸ばすことができるに違いないと考えたからである。



こうして予想もしなかったこと(an entirely unexpected source)から希望の光が見えてきたのであった。

私が蓄音機(a Victola)を買って帰ってきた日のことだった。生まれて初めて音楽を聞いてブレイアはとても興奮し(went into ecstasies)、蓄音機がすっかり気に入ったように見えた。二時間以上も蓄音機の端を歯でかむような姿勢(with his teeth clamped on the edge of the case)をして、彼はレコードを聞いていたのである。

ブレイアのこの姿勢は、大変重要な意味を持っていたのだが、骨伝導(bone conduction, 骨の振動により音が伝わること)という現象を聞いたことがなかったので、私は何年もその意味がわからなかった。

ブレイアが蓄音機に飽きたころ、私は彼の頭骨の斜め下方の少しとがった骨の部分(mastoid bone, 乳状突起骨)に唇をあてて話してみた。そうするとよく聞こえているらしいことがわかった。こうして私の声が彼に聞こえていることがわかったので、私は直ちに、彼に「聞きたい、しゃべりたい」という願望を持たせようと考えた。



それから間もなくのことだが、私はブレイアが寝る前の物語(bedtime stories)を聞くのが好きなことを発見した。そこで私は彼に”聞こえるようになりたい”という強い願望(a keen desire)を抱かせるような童話をつくって、夜ごとに聞かせることにした。話すたべに、飽きがこないよう新しい脚色を加えつつ、その物語を繰り返し聞かせたのである。

このようにして、彼が背負っているハンディキャップ(liability)は負い目(affliction)でも何でもなく、大きな価値をもつ一つの財産(an asset of great value)であることを、彼の心に植えつけたかったのである。

「どんなハンディキャップも、それに匹敵するだけの利点をもっている(every adversity brings with it the seed of an equivalant advantage)」とする考え方を、これまで私は実践し広めることに努めてきたが、当時は、正直のところブレイアのハンディキャップがいったいどうやって財産に転化し得るのか、まったく見当もつかなかった(I had not the slightest idea)

今、当時の経験を振り返ってみると、息子の私に対する信頼(my son's faith in me)が驚くべき成果(the astounding results)に結びついたように思う。私が教えることに対して、彼は疑うということをしなかった(He did not question anything)。教えに対して、とても素直だったのである。



私は(そのハンディキャップにもかかわらず)彼が兄より有利なもの(advantage)を持っているのだ、と教え込んだ。そしてその利点がいずれ多くの面で現れるだろうとも語った。一例をあげれば、学校の先生は、彼に聴覚がないことを知れば、特に彼に注意をはらい親切に扱うであろう、などといったことである。

また、アルバイトで新聞売り(a newspaper merchant)になれるような年ごろになれば(そのとき彼の兄はすでに新聞売りのアルバイトをしていた)、兄よりも有利な立場になるであろうと教えてやった。買う人は、新聞売りの少年が耳がないにもかかわらず、一所懸命に仕事をしているのを見れば、励ましのためにより多くのチップ(extra money)をくれるに違いない、と考えたからである。事実そのとおりだった。

七歳ごろになると、私の教えが有効であったことがだんだん判明してきた。もっとも数ヶ月にわたって、ブレイアは「新聞を売りたい」と言い続けたが、母親はなかなかそれを許さなかった。

そこでとうとう、ブレイアは自分で道を切り開く決意をした。



ある日の午後、わが家の使用人たちが気を許しているスキに、ブレイアは台所の窓から抜け出して表に出るのに成功した。そして近所の靴屋から6セントを借り、それで新聞を卸してもらってすぐに売り払い、その売り上げでもっと多くの新聞を買うということを、夕方まで繰り返し行ったのである。借りた6セントを耳をそろえて返してもなお、42セントの儲け(a net profit)があった。

その夜、私が帰宅すると、彼はそのお金をしっかりと握ったまま眠っていた。母親は彼の手を広げ、そこに握られていた硬貨を見て泣き出したが、逆に私はブレイアの最初の成功(first vitcory)を見て、心から喜んだ。というのは、私の教えたことによって、ブレイアに自信が芽生えたことを知ったからだ。

母親は、耳の不自由な少年が哀れにも命がけでお金を稼いだという見方をしていた。しかし、ブレイアは私の目には、勇敢で自立した小さな実業家(a brave, self-reliant little business man)として映った。自分自身でやってのけたために余計にその価値は大きいものがある。このことで彼は彼自身の一生に役立つもの(evidence of a trait of resourcefulness)を得た、という感触が私にはあった。



教師たちがよほどの至近距離で大声で話してくれたときを除いて、ブレイアはほとんど耳が聞こえないまま、小学校、中学校、高等学校、大学を卒業した。聾学校(a school for the deaf)には通わなかった。私は彼に手話(the sign language)を習わせたくはなかった。彼には健常者(normal children)と付き合い、普通の人の生活(a normal life)をさせてやりたかったのだ。私にはそうできる、という確信があった。そして私は、その考えを貫き通したのである。もちろん、ときには学校関係者と熱い議論(heated debates)を交わすことにはなったが…。

高校生のころ、電気を使った補聴器(an electrical hearing aid)を使用してみたが、役には立たなかった。しかし、大学生活も残すところあと一週間というときに、彼の人生の最大の転機(the most important turning-point)となる出来事が起こったのである。



それは偶然のこと(mere chance)であったが、ある日、新しい補聴器(another electrical hearing device)を試してみる機会があった。あるメーカーが突然、見本(trial)として送ってきたのだ。似たような装置を用いてこれまでうまくいったことがなかったので、彼はあまり積極的に試そうという気は起きないようだった。ブレイアは無造作にその補聴器に耳をセットし、スイッチを入れてみた。

するとどうだろう。生まれてこのかた、ずっと念願してきた正常な聴力(normal hearing)が、まるで魔法のように(as if by a stroke of magic)現実のものとなったのである! 生まれて初めて、普通の人と同じように聞くことができたのだ。この補聴器によって、まったく新しい世界(the changed world)が開けたのである。

ブレイアは飛びあがって喜び、母親に電話をかけに行った。そして母親の声を完璧に聞き取ることができたのである。また次の日には、授業中に教授の声をはっきりと聞き取ることができた。本当に初めて、他の人と自由に会話を交わすことができたのである。これはまさしく別世界(a Changed World)に飛び込んだようなものであった。



こうして願望はようやく叶いつつあった。しかしまだ、私たちは完全な勝利を手にしたとは思わなかった。というのも、私は彼が背負わせれた障害(Nature's error)を何らかの方法で、障害に匹敵するだけの財産(an equivalent asset)に転換する決意をしていたからである。

願望は新たなステップへと一歩踏み出した。

ブレイアは音のある世界という、生まれて初めての経験に恍惚としていた。そして、補聴器のメーカー(the manufacturer of the hearing-aid)に手紙を書き、熱っぽく(enthusiastically)自分の体験を報告した。手紙を読んだメーカーは、彼をニューヨーク(New York)に招いた。



ニューヨークに着くと、彼は工場を案内されながら、技師(the Chief Engineer)にまったく新しく開けた世界(his changed world)のことを話していた。

ちょうどそのとき、あるインスピレーション(an inspiration)が彼の頭に浮かんだ(flashed into his mind)。そのインスピレーションこそが、彼の障害を財産に変えるキッカケとなったのである。そのとき彼の心に浮かんだヒラメキ(impulse of thought)によって、耳の聞こえないまま一生を過ごさなければならない何百万人もの人々に、富と幸福を与えることができたのだ。

そのインスピレーションとは、次のようなものであった。

彼らに自分の体験(his changed world)を伝えることができれば、補聴器(hearing devices)を使用しないまま一生を終えてしまう数多くの耳の聞こえない人(the millions of deafened people)を助けることができるのではないか…。



こうして一ヶ月間、ブレイアは研究に没頭した。彼は補聴器メーカーのマーケティングを徹底的に分析したのである。ブレイア自身の喜びを「他の耳の聞こえない人々(the hard of hearing)とも分かち合おう」という強い願望に促されて、彼はがんばり通した。

彼は自分の調査結果に基づいて入念な2カ年計画をメーカーに提出すると、メーカーは直ちにそれを実行するための役職に彼を就かせることを決めた。

もしブレイアが「ハンディを背負った人々に彼が体験した喜びと希望を与えたい(bring hope and practical relief to thousands of deafened people)」という願望をもたなかったら、これらの人々が喜びと希望を見出すのは、もっとずっと後になってからのことになっていたに違いない。



何よりも、私たち夫婦がブレイアの心構えをプラスの方向に形成していなかったならば、「ブレイアはただ耳の聞こえない人間として一生を送ったに違いない」と確信している。

私たちは彼の心に、「聞きたい、話したい、普通の聴力をもった人として生きたい(hear and talk, and live as a normal person)」という燃えるような願望(a burning desire)を植えつけたのであるが、その願望は不可能を可能にする力(bridge-builder)を発揮して、彼の聴力をよみがえらせたのである。

ブレイアは正常な聴力を願望して、それを手に入れた。まさに「チャンスは準備をしていた人間のもとに飛び込んできた」のである。

もしハンディに打ちのめされたまま過ごしてきていたならば、彼はその障害を財産に変える術(すべ)もなく、この社会を生きていかなければならなかったであろう。明確な願望と、燃えるような確信、信念が、ブレイアにも、また周囲の人々にも幸福をもたらしたのである。