2018年5月9日水曜日
わずか1bit、されど1bit【情報量の意味とは】
From:
斎藤 由多加
『ハンバーガーを待つ3分間の値段』
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「よくも、これだけの車が走っていて、無事でいられるな」
と高速道路を運転しているときに思います。
スチール製のこの無表情な物体の唯一の表情といえば、ウィンカーくらいですが、そこで発することができるのは、わずか1bit の情報量でしかありません。たったこれだけの情報が、高速道路の秩序を保っていると考えると、とても不思議です。
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大雑把に言うと、野球選手がやっていることといえば、「投げる」「打つ」「走る」「捕る」のどれかです。どれをとっても、一つ一つは単純なアクションで、ほとんど意味をもたない。
注意深く周囲を見回してみると、実はこれは野球に限ったことではないことに気づきます。サッカー、ラグビー、将棋、麻雀、トランプ…、すべてのかけひき(ゲーム)に共通しているのは、「一つ一つのプレイは、ほんのわずかな情報量しかもっていない」ということです。しかし、これらが「特定のルール」に則って行わるとき、それらは別の大きな意味をもってきます。
今年、ドイツでサッカーのワールドカップが開催されますが、日本代表の「シュート」という1bit の情報が、日本人の意識のなかでは数百メガバイトの意味となって駆け巡ります。この、ごくわずかな情報を大きな価値に増幅させてしまう力こそ、もしかしたらインテリジェンスと言われるものではないでしょうか?
「選手が蹴ったボール」=「わずか1bit ほどの情報」
がどれだけ観衆を熱くするか、世界の熱狂ぶりからわかるのは、デジタル的な情報量とは無関係に、私たちの意識のなかで情報は変質するということです。興味のない人たちにとっては無意味なことかもしれませんが、特定の人にとっては、巨大な意味をもつ、それがスポーツの特徴です。
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わずかな情報を大きな価値に変換するインテリジェンスをもった人々…、彼らは、一般的には「ファン」と呼ばれますが、野球やサッカーのように全国的に浸透するにいたった国民的スポーツでは、たくさんの人がそのインテリジェンスを備えていることを意味します。
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ルールを知っているファンが多ければ多いほど、そのゲームの資産価値は高い、ということになります。ブランド・メーカーがそうであるように、ソフトウェア企業の資産価値の算定基準は、実はここにあると思います。
つまり、つきつめると付加価値というのはすべて、モノではなく人間の側にその受け皿があるかないか、で決まるものではないかと思うのです。
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デジタルの世界では、「200バイトの詩」と「2メガバイトの書籍」では、圧倒的に後者のほうが情報量が多い、という暗黙の了解がありますが、ひとたび人間を経由すると、数行の詩が、一冊の百科事典に勝る影響力にまで増幅されます。
ビートルズのたった数行の歌詞が人生を変えた、という話はあちこちに存在していますが、それを可能にしているのはメディアや技術の力ではなく、人間の力です。
この解釈する力を一般的に「感受性」と呼び、そしてこれを利用し、より少ない情報量でメッセージを伝える作品の力を「芸術性」と呼ぶのではないか、と私は思っていますが、この両者がかみあったとき、はじめてコミュニケーションという目的が達成されるようです。
私がゲームを制作していて常日ごろ思うのは、64 bit のグラフィックエンジンとフル3Dモーションをつかったゲームが、果たして二色刷りのトランプやマージャン牌がもたらす興奮に勝てているのだろうか、という疑問です。むしろ、説明過多になればなるほど、受け手の入り込む余地を狭めてしまうような気がしてならない。
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業界に身をおく人はみな、
「何百Mbps までいけば、顔を突き合わせた現実の人間のやりとりに到達するのか」
なんてことを考えてしまいます。生の対面というのは、果たして何Mbps の情報量で結ばれているのだろうか、と。
その答えはわからない。「わからなくてもしょうがない」ではなく「わからないのが正しい」という意味です。
「生演奏はCDの何倍、音がいいの?」
という質問に似ています。無限の情報源から何を受け取るかは、おのずと受け手のIQに比例します。
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人間がひとつの目的をもったとき、かならずしも「情報量が多いこと」がリアルとはならないようです。
実はこれ、ゲームの重要な考え方です。どんなにすばらしいCGをつくったところで、プレイヤーの思考のなかで化学変化をおこせないものは、不要なノイズにすぎないのがゲームです。
画面の上に投影されただけでは「情報」はあまり価値をもたない、ということです。どんなに大容量の処理ができるようになったとしても、人間の思考に入り込んで、補完され、そして増幅されないかぎり、大した影響力をもちません。
これに対して、IT業界がこれまで単位としてきた「メガバイト」や「ギガバイト」といった単位は、あくまで技術的な処理量ですから、人間への影響力とは無関係といえます。
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「メガバイト」「ギガバイト」といった単位に翻弄されている私たちは、情報を昇華させることを忘れているような気がしてならないのです。情報のジャンクフード化とでも言いましょうか、私たちのコミュニケーションが高カロリーの情報ばかりを摂取している様は、燃費のまるで悪いエンジンを見ているようです。
渋滞した高速道路で、私の車の前に割り込もうと、一台のクルマがだした1bit の情報。そこに感じたドライバーの厚かましい性格は、あるいは私の拡大解釈がなせる、単なる誤解だったのでしょうか…。
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斎藤 由多加
『ハンバーガーを待つ3分間の値段』
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