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仏教学者 中村元 求道のことばと思想
2014/7/24
植木 雅俊 (著)
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それは、1991年の10月9日のことであった。その翌日の午後、出先で携帯電話が鳴った。妻の眞紀子からだった。緊張した声で、「中村先生が亡くなられたみたい」と告げた。86歳であった。
中村は、自らの最期について1986年に出版された『学問の開拓』に、
「わたくしは死の寸前まで机に向かい、自分のほそぼそとした研究をまとめ続けたいと願っている。筆をもったままコトリと息絶えれば、学者として、それはそれで本望であろう」(81頁)
と綴っていた。まさに、その通りの学者として本望の姿であった。
『ソフィーの世界』に学ぶ
中村の密葬が、10月12、13の両日にわたって行なわれた。
会場正面の向かって右側に、サールナートで発掘された穏やかな表情の初転法輪坐像」の写真(表紙カバーの写真)が掲げられ、その左側に左斜め前向きで合掌する中村の写真があった。中村の依頼で写真家の丸山勇氏の作品を引き伸ばしたもので、中村が初転法輪坐像に向かって合掌している構図になっていた。
会場では、アメリカから来日していたイナダの姿を見つけて驚いた人が多かった。筆者が、中村の病状を逐一知らせていたことで、駆けつけてきたと聞いて、「植木さん、ケンによく知らせてくれた。ケンとはもう三十年来、音信不通になっていた」と東洋大学教授(当時)の川崎信定(かわさきしんじょう)が喜んでくれた。イナダと同じ年齢の三枝も再会を喜んだ。
告別式で棺の中に花を添える時、中村の胸にヨースタイン・ゴルデル著『ソフ
ィーの世界』が置かれていた。
その理由を三木純子にうかがって、中村の学問に対する姿勢を改めて教えられる思いがした。その思いを本間に伝えると、「植木さん、それを書いてください」と言われ、『仏眼』に次のようにしたためた。
生涯求道の中村元先生を悼む
印度学仏教学の世界的大家、中村元博士が10月10日に亡くなられた。86歳であった。前号で紹介したように7月に決定版「中村元選集」を完結させたばかりであった。一つの大きな山を越えたことでホッとしたところへ、この夏の猛暑。8月末に体調を崩し、病床に臥す毎日だった。前号の記事「決定版r中村元選集』の完結に寄せて」を家族の方々が喜んで下さり、先生の枕元に置いて記念撮影をされたと、長女の三木純子さんからうかがった。恐縮の限りである。
10月12、13の両日、アメリカから駆けつけたケネス·K·イナダ博士夫妻をはじめ、三枝充悳、前田專學、奈良康明、川崎信定、田村晃祐(たむらこうゆう)、森祖道(もりそどう)博士ら、中村先生の教えを受けた人たちをはじめ、東方学院関係者、身内の方々で密葬が行なわれた。
式では中村先生が日ごろから日課として朗読していた「依文三帰(さんきえもん)」と「生活信条」を参加者全員で唱和した。その「生活信条」の全文は次の通りである。
み仏の誓いを信じ 尊い御名をとなえつつ、強く明るく生きぬきます
み仏の光をあおぎ 常にわが身をかえりみて 感謝のうちに励みます
み仏の教えにしたがい 正しい道をききわけて 誠のみのりをひろめます
み仏の恵を喜び 互いにうやまいたすけあい 社会のためにつくします
その一言一句を噛みしめながら朗読した。卓越した学者でありながらも、どこまでも謙虚で、慈愛溢れる中村先生の人柄の秘密の一端を垣間見る思いであった。
40歳にして初めて難解なサンスクリット語を学び始めた私に、中村先生は人生において遅いとか早いとかということはございません。思いついた時、気がついた時、その時が常にスタートですよ」と励ましてくれた。それは、中村先生自身の信条でもあったのだ。
30年近く前に出された「選集」に満足せず、大幅増補·改訂されて決定版「選集」を完結させた。80歳の時の年初の講義で「今年は9冊本を出します」と言って、本当に分厚い本を9冊出した。二百字詰め原稿四万枚がなくなって、8年がかりで作り直した『佛教語大辞典』の話は有名だ。中村先生は、「やり直したおかげで、ずっといいものができました。逆縁が転じて順縁となりました」と語っていた。その『佛教語大辞典』についても、晩年には「まだまだ手を入れたいところがある」とも口にしていた。
中村先生は、文字通り最後の最後まで研究の集大成に挺身しておられたのだ。告別式で奥様の洛子夫人が、「主人は、自分の何よりも好きな勉強を生涯続けられて幸せだったと思います」と一言挨拶した。短いが、生涯求道の中村先生のすべてを物語っている言葉だった。
お別れの時、開かれた棺の中の先生の胸の上にはヨースタイン・ゴルデル著、池田
香代子訳『ソフィーの世界』(上·下)が置かれていた。
中村先生と『ソフィーの世界』――その組み合わせがなかなか理解できなかった。「何でだろう?」。長女の三木純子さんにうかがうと、中村先生のお孫さんが持っていたその本に興味を示し、中村先生はお孫さんから借りて愛読していたそうだ。検査入院の時や、地方に出かける時、純子さんが、「荷物は何を入れますか?」と尋ねると、いつも
「筆記具と『ソフィーの世界』」
というのが答えだったという。純子さんは, 「父が読みかけだったようなので、 "向こう“でゆっくりと読めるようにと考えて、棺に入れてあげました」と話してくれた。ペーパーバックのカバーは少し擦り切れていた。哲学を分かりやすく書いたものとして、話題になった書である。
中村先生は、日ごろから「分かりやすく説くのは通俗的で、わけの分からぬような仕方で説くのが学術的であるかのように思われているが、これはまちがいだ。分かりやすく説くのが学術的なのだ」とよく話されていた。この本についても、「これからの学者は、このように子どもや一般の人にも分かるように書かねばならない」「ワシも勉強せねばならぬ」と話されていたという。
中村先生がこの書を愛読されていた事実を知って、改めて中村先生の学問への態度を教えられた思いである。
この精神を継承することが中村先生への追善となろう。
中村先生のご冥福をお祈り申し上げます。
一九九九年十一月一日
合掌
(『仏眼』1999年11月15日号)
池田香代子の涙の感動と驚き
この記事を、『ソフィーの世界』の翻訳者である池田香代子に、逸早く知らせたくて郵送した。そして、池田からメールが届いた。11月28日のことだった。それは中村の誕生日に当たり、中村の納骨の日であり、メールを受信したのは、その納骨が行なわれている時刻であった。
そのメールには
『佛眼』をお送りくださり、ありがとうございました。なんだろうと思ってページを繰っていき、ご文章に行き当たって、ほんとうに驚きました。とっさに、涙があふれました。このような大碩学が、晩年、あの入門書を楽しんでくださり、行く先々にお持ちまわりになったとは。この本にたずさわった一人として、生涯、光栄に存じます。しかも、遠い旅立ちに、ほかにいくらでも、それこそいくらでもおありだろうに、あの本を故人にお持たせになったご家族のやさしいお心、故人とご家族の深い愛の絆を思って、ご家族もまたすばらしい方々だと感じ入りました。
中村元氏は、私は直接ご本を読むような器ではありませんが、サンスクリットの詩のご翻訳は昔から拝見していました。友人にサンスクリット学者がおり、「日本には中村元しかいない」と常々言っていました。『ソフィーの世界』の編集者と監修者は、中村氏がお亡くなりになったとき、お噂をしていたそうです。その二人にもすぐさま電話で植木様のことを伝え、電話口でそれぞれに涙ぐんでしまいました。
池田香代子
と記されていた。
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2014/7/24
植木 雅俊 (著)
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