2013年5月21日火曜日

「しま」から始まった日本の庭園。その略史




昔むかし、庭のことを「しま」と呼んだという。

それは古い古い「日本書紀」「古事記」に見られる。



飛鳥時代の612年、百済からの渡来人が、宮中に須弥山(しゅみせん)と呉橋(くれはし)を造ったのが、日本で最初の「庭園」と云われている。

「当時、四方を山に囲まれた大和(奈良)に住んでいた人々が、『海への憧憬』から、このように呼ばれたものと考えられている(瓜生中)」



「海への憧憬」

それが、池と小島を配した日本庭園の典型となる。

自邸に池を掘り、小島を設けた蘇我馬子は「島の大臣(おとど)」と呼ばれたそうな。



日に映えた山は紫にかすみ、日を浴びた川は明るく美しい。

いわゆる「山紫水明」。自然を活かした日本の庭園。

奈良時代にも平安時代にも、その伝統は受け継がれる。奈良期における長屋王の遺跡からも池を配した庭園が出土し、平安期における宮中の禁苑(庭園)「神泉苑」もまた、そうである。



平安時代も進むと、日本各地の有名な景勝地が、庭に模されるようになる。

いわゆる「海景模写」。そのモデルは「松島の風景」であったり、「丹後の天橋立(あまのはしだて)」であったり。

一方で、「野の野趣」を愉しむ作庭、「野筋(のすじ)」と呼ばれる手法も、当時の人気を集める。萩やナデシコなどの野草が配され、「山里の侘しさ」などが表現されるようにもなる。



平安後期は源平合戦。世の無常を通して、浄土への想いが増していく。

いわゆる「浄土庭園」。極楽浄土の光景を、庭に表そうとしたものである。かの平等院鳳凰堂、そして奥州藤原氏の毛越寺庭園。

阿弥陀如来を祀った阿弥陀堂のまえに設けられた池の中央には、中島が配され、太鼓橋と平橋が穢土と浄土とをつなぐのであった。







続く鎌倉武士の時代は、禅宗に代表される質実剛健。

いわゆる「枯山水(かれさんすい)」。庭の水は枯れ、代わりに白砂がその流れと見立てられるようになる。そこに配されるは、大小さまざまな石。

この時代に「石立僧」と呼ばれた作庭師たちは、文字通り石を立てて庭をこしらえた。中でも夢窓疎石などは傑物であった。







禅の思想が形をとった「禅宗庭園」。その構成は極度に抽象化・象徴化されたものとなる。三尊石と称する3個の石が、三尊仏に見たれられ、究極の造形美へと昇華する。

京都龍安寺の石庭は、15個の石を、7個・5個・3個の石組みにして左から右へと流し、平面には白砂を敷き詰め、周囲には築地塀を巡らせている。石の周りのわずかな苔類を除けば、草木は一本たりともない。

禅の思想というのは、そこまで抽象化された世界であった。







そうした簡素さは、茶道にも愛された。

いわゆる「茶禅一致」。千利休の代表作とされる京都妙喜庵の茶室、待庵の茶庭がそうである。







ここに簡素さは、極まったようであり、のちの時代の庭園は多様化への道を歩むこととなる。禅のシンプルさも良し、各地の景勝地を模写するも良し、である。







(了)






出典:大法輪2013年4月号
「寺院の庭園に学ぶ 瓜生中」

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