此道を興すには、狂者にあらざれば興すことあたはず
此道を守るには、狷者にあらざれば守ることあたはず
幕末の苛烈な志士「吉田松陰」
その彼が投獄中にまとめたという「講孟余話(こうもうよわ)」。その書に、上記の文言が見られる。
狂者にして狷者、「狂狷(きょうけん)」にならん。この道を興し、守るため。
そう、吉田松陰は言うのであった。
「狂狷」とは、孔子の論語に見られる言葉である。
「子曰わく、中行を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや『狂狷(きょうけん)』か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり」
孔子は「狂者(理想家)」か「狷者(頑固者)」と交わるのが良いと言っている(もし、徳のある人がそばにいないのであれば)。
なぜなら、狂者は善いことを進んで受け入れ(進取)、狷者は悪いことをしない(不爲)からだ。
本来、「狂」にも「狷」にも良い意味はない。その文字に「獣偏」がついていることが、それを示している。
だが、孔子も吉田松陰も、「狂狷」を良しとした。両者の生きた時代は、それも必要な乱世でもあった。
死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし
そう言っていた吉田松陰は、齢30にして斬首刑に処される。
身はたとひ
武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし
大和魂
死して不朽となった吉田松陰
「百年一瞬耳(百年など一瞬にすぎない)」
出典:致知2013年6月号
「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり 吉田松陰」
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