2013年6月29日土曜日
主婦から政治家へ。有村治子・参議院議員
妊産婦や赤ちゃんのために、「マタニティ・マーク」を制定した国会議員「有村治子(ありむら・はるこ)」さん。
彼女は、自民党が全国区ではじめて公認した「無名の主婦」だったという(当時30歳)。
有村さんは当時をこう振り返る。「一人の国民として、野田聖子先生に手紙を出したんです。党も制度も疲労を起こしているようですので、若い力を取り入れてぜひこの状況を乗り越えていただきたい、と」。
当時の自民党内閣の支持率は8%にまで低迷(森政権末期)。有村さんは「会社を辞めて大学院に進学した主婦」だった(日本マクドナルド → 青山学院大学)。
はじめての選挙活動は「生易しいものではなかった」。
「選挙に出ると『親類と友だちの半分を失う』、とよく言われますが、街頭に立てば『黙れ!』とツバや罵声が飛んできました」と有村さんは語る。
なんの組織も持たない有村さんは、駅や商店街で「名刺」を配るのが精一杯。一日中、名刺を配っていたという。
「でも、ちゃんと受け取ってくださる方は、一時間に2人くらい。破り捨てられることもしょっちゅうです」
じつは有村さんの父は「県会議員」。その落選も目にしている。
「私が16歳の時に、父が県議会選挙に落選しました。それまで父のことを『有村先生』と呼んでいた方が、一晩で『有村っ!』って怒鳴るようになりました。高校生ながらに、そういう人間の2つの面を見たことは、本当に貴重な体験でした」
有村治子さんが参議院に当選を果たすのは、奇跡のような「小泉旋風」に後押しされてのことだった。
「本当に私はギリギリのところで当選させていただいたのです」
そして、政治家になった印象はというと
「政治というのは生存競争が激しく、現代における唯一『合法な戦争』じゃないかと思いました」
また、政治家の成果を測る「物差し」が、あまりに短いことにも驚く。
「日本は平成になってからの25年間で、17回も首相が交代しています。それが海外にも伝わって、首脳会談もセットできない。他国との交渉のテーブルにすら着けない悲哀を、私は目の当たりにしてきました」
さらに、今の日本には「国運」もない。
「国運とは『一人ひとりの運気 × 国民の数』です。人の集団が『国の運』をつくるのだと考えますが、東日本大震災の時には『政治のもたつきによる人災』も指摘されました」
有村さんは、政治家の仕事を「国家の行く末を確かにすること」と考えている。
「たとえば、私たち民族の安全がこのコップの中に入っているとしたら、これをどこに置くかでその安全性は変わってきますよね。不安定なところに置けば、落ちて割れてしまいます」
「ですから、国民全体が依って立てる『確固たる足場』をつくること。それこそが政治家の使命と考えています」
(了)
ソース:致知2013年7月号
「主権の大切さを訴え、国運高揚に全力! 有村治子」
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