2012年10月30日火曜日
向上門と向下門
「向上向下の道」
人は生まれてから、知らぬうちに「向上門」をくぐり向上に励み、一歩一歩、向上の道を登っていく。
その道を上っていく先には「向下門」がある。それは、自分が極めたことを世の人々に示せるか、どんな人にも解ける言葉で示せるかを試される門。
出典:「安岡正篤 心に残る言葉 」
賢は賢なりに、愚は愚なりに…
片言隻句
2012年10月28日日曜日
忘却という「黒いページ」
2012年10月24日水曜日
「鼻垂れ」から「日本騎兵の父」へ。秋山好古
いつも鼻汁を垂らして泣いておる…。
のちに、日露戦争において名を馳せる「秋山好古(あきやま・よしふる)」であるが、その幼年時代はといえば「虚弱」であった。
7ヶ月足らずの未熟児として生まれた好古。その泣きようがあまりにも哀れで、「こんな弱い子を育てたところで…」と、母親は何度も橋のたもとまで足を運んだのだという。
一家はまさに絵に描いたような貧乏侍の子沢山。7人もいた子らを育て切ることができず、弟2人はのちに養子へとやられることとなる。
五男の真之(さねゆき)が生まれた時も、やはり貧乏な両親は悩んだ。
「いっそ寺にやってしまおうか…」
そのささやきを聞いた三男・好古。のちの名ゼリフを吐く。
「赤ん坊をお寺へやっちゃ厭(いや)ぞな。おっつけ、うちが勉強してな、『お豆腐ほどのお金』をこしらえてあげるがな」
当時、愛媛松山の人は「豆腐ほど札を積んでみたい」というのが慣用句だった。その大言を鼻垂れの信三郎(好古の幼名)が吐いたのだ、「あの鼻信が…」。
のちに、好古のかばった弟・真之(さねゆき)は、日本海軍の参謀となり、日露戦争でこれまた名を馳せることとなる。
虚弱だった好古も、体格が大柄になるにつれ、体質も頑健となってくる。
兄の窮地を救うべく、木刀を帯びにブチ込み、単身で御若手連(おんわかてれん)と称する青年グループを叩きのめすまでになっていた。
身体は頑健になれど、秋山家の家計は依然として火の車。
風呂屋(戒田湯)で釜焚きをしていた好古の賃銭は一日わずか天保銭一枚。「お豆腐ほどのお金」をこしらえるには進学するより他になかった。しかし、そのカネもない。
「どこかに、学費のいらぬ学校はないものか?」
そんな都合の良い学校は大阪にあった。文部省が設置したばかりの官立師範学校である。その入学資格は19歳以上とされていたが、17歳だった好古は年齢を2歳ごまかして受験し、そして合格した。
卒業後、愛知県立名古屋師範学校附属小学校に招かれた好古は、月給30円をもらう身となっていた。
と、ここで大事件が勃発する。九州士族の反乱である。鹿児島においては西郷隆盛が巨大な反乱を企てているという…。異様に緊迫した空気に包まれる名古屋。ここには鎮台が置かれていたため、次々と兵隊たちが集結、戦地へと送られて行っていたのである。
それを目の当たりにした好古は、「眠っていた古武士の血」がにわかに目覚めはじめる。貧しかったとはいえ、好古は武士の子である。
「あしには教師は向かん」と思っていた好古は、興奮と緊張に包まれる名古屋を肌で感じ、「これだ!」と叫んでいた。
一念発起した好古は上京。陸軍士官学校の試験を受けた。英語と数学を学んでいなかった好古は、漢文だけで試験を受けて合格。それほどに好い加減な入試だった。
そして兵科の選択。歩兵か、騎兵か、砲兵か、工兵か?
「騎兵じゃな」。
それは直感だった。
卒業して騎兵少尉となった好古は、翌年、小隊長に昇進。松山初の陸軍将校の誕生であった。この時、好古22歳の若さである。
「鼻垂れの信さんが、まさか…」
郷里の人々は、颯爽とした将校姿の好古をまぶしそうに眺めた。
後年、満州の野において、世界最強のロシア・コサック騎兵団を破るという快挙を成すとは、まだ誰も夢想すらしていない。きっと本人も。
鼻を垂らしていたあの日、好古が弟・真之を必死でかばったのは、彼特有の直感のなせる技だったのかもしれない。士官学校で騎兵を選んだのかも、そうかもしれない。
そして、満州の地において、ミシチェンコ中将率いる世界最強のコサック騎兵団と激突した折、愛馬もろとも塹壕に入ったのもまた、その直感だったのかもしれない。機関銃の一斉集中射撃は日本史上初めてのことであり、それが勝利をもぎ取ることにもつながった。
陸で好古が気を吐けば、海では弟・真之がロシア・バルチック艦隊をほぼ全滅にまで至らしめる。
日本国興亡をかけた一戦、日露の戦いにおいて、秋山兄弟の存在はあまりにも大きかった。
彼らの父・久敬(ひさたか)は「親が偉くなりすぎると、子供が偉くならない」が口癖であったいうが、確かに貧乏一家の家長の言ったことには一理も二理もあった。
「馬引け…」
この呻きが秋山好古、最期の言葉であったという。
弱った心筋が梗塞するその瞬間まで、彼の朦朧とした意識の中では、満州の戦場で馬にまたがろうとしていたのである。
「秋山好古の生涯の意味は、満州の野で世界最強の騎兵集団を破るという、ただ一点に尽きている」と、のちのフランス軍人は賞している。
昭和5(1930)年、明治の時代を生き抜いた日本騎兵の父は永眠。享年71歳。
出典:歴史街道2009年12月号
「貧窮生活の中、直感による選択がもたらしたもの」
述べて作らず
2012年10月22日月曜日
「美点凝視の経営」。障がい者とともに歩む
3日に一度「朝カレー」のススメ
日本の「カレー」には、少ないもので15種類、多いものになると30種類もの「スパイス」がブレンドされているとのこと。
本場インドでは、「裕福な家庭でもスパイスはせいぜい5種類ほど」と言うのだから、日本のカレーはスパイスのチャンコ鍋。
そのスパイス豊富なカレーで、必ず使われているスパイスが「ターメリック」。ウコン(鬱金)とも呼ばれるこのスパイスは、カレーの黄色そのものである。
ターメリックに含まれる「クルクミン」には、活性酸素を抑制するという力が知られている。活性酸素というのは、多くなり過ぎると細胞の遺伝子を傷つけてしまう困り者である。傷ついた遺伝子はガン化する恐れもある。
抗酸化作用を持つというクルクミンは、活性酸素の酸化力を抑え込む。そして、解毒酵素を増やして、不要なものを体外へと排出させてしまう。その効果は72時間(丸3日)持続するとのことである。
なるほど、極端な話、3日に一度カレーを食すれば、それで身体の防衛機能が高まるということか。
そして少々意外なのが、「朝カレー」が効果的だということ。カレーのスパイス刺激は「脳の血流」を活性化させることが知られており、おかゆ摂取時と比べて、およそ2〜4%も脳血流量が増えるのだそうだ。つまり、寝起き早々、頭の回転が早くなる。
3日に一度、朝カレー。
そんな健康習慣もあったのか。
出典:致知2012年11月号
「朝カレーで一日を元気に過ごす インド人もびっくりの健康効果」
2012年10月20日土曜日
世界トップレベルの通信網。「敵艦ミユ」
濃霧の海に目を凝らして見えた、小さな「灯火」。
哨戒中だった「信濃丸」は、その追跡を始める。そして、夜が白み始めた頃だった、大小の艦隊が次々と海上に浮かび上がってきたのは。ロシア最強「バルチック艦隊」である。
信濃丸の発見した「灯火」は最後尾の病院船「アリョール」のものだった。全艦隊に灯火管制が命じられていた中、この病院船ばかりは戦時国際法で攻撃されないと安心していたのか、灯火をつけていた。それが、日本軍に幸いしたのだ。
時は日露戦争における日本海海戦のまさに前夜から夜明けにかけて。
パルチック艦隊はバシー海峡(台湾とフィリピンの間)を通過後、行方が分からなくなっており、いったいどの航路から日本を横切りウラジオストク港に入るのかが不鮮明となっていた。
宗谷海峡(樺太と北海道の間)を通るのか? それとも津軽海峡(北海道と青森の間)を抜けるのか? 予想通り、対馬海峡(朝鮮半島と九州の間)に姿を現すのか?
「そろそろ哨戒船に発見されても、おかしくないのだが…」
司令部には焦りが生まれていた。そんな中、総司令官・東郷平八郎はついに「28日になっても対馬海峡に現れなければ、津軽海峡方面に向かう」ことを決意した。
探しあぐねていたバルチック艦隊の小さな灯火を信濃丸が発見するのは、27日の深夜(午前2時45分)。それは日本艦隊が対馬海峡を離れようとしていたわずか一日前のことだった。こうして、運命の糸は辛うじて切れずにつながったである。
バルチック艦隊を発見した信濃丸は、即座に「敵艦ミユ」を意味する暗号電文を打った(27日午前5時5分)。それを「厳島」が受信し、東郷平八郎の乗る「三笠」へ転電。待望の電文を受け取った東郷は、即刻、日本海海戦へ向けて舵を切る。
参謀・秋山真之(さねゆき)は、大本営に打電するための電文に目を通すと、その最後に次の一文を加えさせた。
「本日、天気晴朗ナレドモ、浪(なみ)高シ」
名分として知られるこの電文は、27日午前5時15分に大本営へと打電された。バルチック艦隊発見の報からわずか10分、すべての準備は整ったのである。
これほど迅速に通信が行われたのは、参謀・秋山真之が上申して実現させていた「三六式無線電信機」のおかげであった。この電信機は世界トップレベルの通信力を誇っており、バルチック艦隊の発見報告をいち早く総司令官・東郷、そして参謀・秋山の元へともたらしたのだ。
また、日本軍は独自の軍用水底(海底)線を日本海に敷設しており、「無線・海底ケーブル・地上有線」を使った画期的な情報ネットワークが構築されていた。参謀・秋山の歴史的名文「本日、天気晴朗ナレド…」も、海底ケーブルを利用して送られたのである。
のちに参謀・秋山真之は、こう語っている。
「日本海海戦は最初の30分で勝負が決まった。しかし、その30分のために10年の準備がいる」
以後の結果だけを記せば、日本海海戦は日本海軍の大勝利、それは日露戦争全体の勝利に大きく貢献することとなる。
出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す」
2012年10月18日木曜日
「抜苦与楽」を求めた仏教と現代医学
最先端をいく現代の医学でさえ、あと100年、200年と経ったとき、「あの頃はなんと未開なことをやっていたんだ」と思わる時が来るのかもしれない。
「ガンを手術して切り取る、抗ガン剤で叩く、放射線で焼くといった手法を、『なんと未開なことをしていたんだ』と思う時期が来るかもしれません」
そう言うのは矢山利彦氏(矢山クリニック院長)。彼は続ける。「自然や宇宙を説明する原理が、いまや『量子論』抜きには考えられないのに、医学にはまだ、量子論がまったく組み込まれていないことも、その根拠の一つです」。
量子論という物理学によれば、この宇宙すべての存在を「粒子」かつ「波動」と考える。
「病気という現象も、波動が変調し、粒子(原子・分子・細胞・組織)の変調が重なって起こるわけで、だとしたら心身の波動を調整することによって、病気の治療を行うことも可能になるはずです」と矢山氏は説く。
ここで矢山氏が問題とするのは、技術的なこともさることながら、医学の「最終成果」、「病気が減って、人々が幸せになれるのか」ということである。「死なないことが目的なのか、幸せに生きることが目的なのか」と問うのである。
仏教には「抜苦与楽(ばっく・よらく)」という考え方があるが、それは「衆生の苦しみを抜き去り、楽しみを与える」ということを意味する。つまり、たとえ何かを成し得たとしても、それが新たな心配、苦悩の種となるようであれば、それは幸せを与えることにはならない。仏教の目的に反するということになる。
確かに、現代の医学は病巣という「表面的な苦しみ」を抜くことに特化するばかりで、そのまた深いところにある「根っこの苦しみ」までを癒すにはまだ至っていないのかもしれない。
「未開」であることは、いわば流れる時代の常。その良し悪しを問うことに意味はない。それよりもむしろ、「どこを見据えていたか」の方がより重要なのであろう。未開であることが不幸に直結しているわけでは決してないのであろうから…。
出典:致知2012年11月号
「空海の言葉に学ぶ生き方のヒント 矢山利彦」
2012年10月16日火曜日
ある床屋のオヤジ、叱り叱られ…。
ある床屋のオヤジは、経営の神様「松下幸之助」にこう言い放った。
「あなたは自分の顔を粗末にしている。これは商品を汚くしているのと同じことだ。散髪のために時間をつくる心掛けがなければ、とても大を成さない」と。
当時の松下氏は「容貌をほとんど気にせず、頭髪もぞんざいだった」というが、いきなりの初対面で、床屋のオヤジ「米倉近(よねくら・ちかし)」氏はこんなことを言ったのだ。
しかし、対する松下氏はさすがである。「誠にもっとも千万。至言なるかな」と、それ以来、その床屋「米倉」を贔屓にするようになったというのである。この米倉というのは銀座の中央通りにあったという、一流のお客を相手にする理髪店だった。
時が下り、今度はその床屋のオヤジがお客に叱られる番に…。
母の影響から、米倉氏は大変に厚く観音様を信仰しており、ある時、米倉氏は店を留守にしてまで観音様を拝みに行っていた。
折り悪く、米倉氏がいないときに床屋に来た一人のお客、大竹竹次郎氏(松竹)。主人の不在を知ると、後日改めて来店することに。
後日、米倉氏と面と向かうや、開口一番、「開店中に主人が留守とはどういうことか! お客様に不自由をさせて、ご利益などあろうものか!」と懇々と諭しはじめる。「客商売は、客が店の信者なのだ!」
すっかり我が身を恥じた床屋の主人・米倉氏。「確かに、お客様を差し置いて、いくら観音様を拝んでも、ご利益などあろうはずもない。自分の生業こそが信仰だった…」と思い至る。
その時の確信が、「業即信仰」とのことである。
「世の中にある無数の業(仕事)には、それ自体に良し悪しがあるわけではない。その行を行う者の人格いかんによって、それが決まるのだ。業を高めることこそが、そのまま自己を高めることにもなる」
以来、「毎日が開業日」を口癖としたという米倉氏。「店というのは古くなると惰性に流され、だらしなくなる。毎日を開業日のように新鮮な気持ちで場を清めなければならない」。
そんな理容「米倉」、今は四代目。あと数年で100周年とのことである。
出典:致知2012年11月号
「業即信仰 米倉満」
豪放かつ柔軟。江戸の儒者・佐藤一斎
「少にして学べば、すなわち壮にして為すあり
壮にして学べば、すなわち老ゆとも衰へず
老いて学べば、すなわち死すとも朽ちず」
この言葉は「三学戒」と呼ばれる「佐藤一斎(さとう・いっさい)」の言葉。
この言葉通り、佐藤一斎の教えは彼が死してなお、朽ちることはなかった。佐久間象山へ、吉田松陰へ、西郷隆盛へ…。
学者としての堅さがある佐藤一斎であるが、「豪放をもって自認する」と評伝にはある。若い頃は「酒豪」だったというのだ。
しかし、のちの彼は「人生最も戒むべきもの」として、「酒」を名指ししている。かつての酒豪には、何か苦い経験でもあったのであろうか?
「陽朱陰王」というのも、佐藤一斎を簡潔に表す言葉だ。
表立って(陽)は、「朱子学(朱)」を。その裏(陰)では、「陽明学(王)」を。
当時の江戸幕府による官学は「朱子学」。佐藤一斎は幕府の儒官であったから、官学である朱子学を教えるのは当然のこと。しかし、「朱子学は形骸化し、すっかり魅力を失っていた」。そこで一斎はこっそり、より実用的な陽明学も弟子たちに教授していたというのである。
この「陽朱陰王」という言葉は、決して褒め言葉ではなかったものの、結果的には「一斎の思想的柔軟性」、つまり学問の幅の広さを示すこととなり、それがまた多くの弟子たちを魅了することとなった。
事実、佐久間象山、吉田松陰へと続く道は、陰とされた陽明学だったのである。
冒頭の「三学戒」をはじめ、佐藤一斎の後半40年間の業績がまとめられた書物が「言志四録」。
「西郷隆盛がこの『言志四録』の中から101カ条を選んで、心の糧としたことはよく知られている」。「手抄(しゅしょう)言志録及遺文」がそれである。
「天、何のゆえに我が身を生み出し、我をして果たして何の用に供せしむるか。
我すでに天物(天のもの)なれば、必ず天役(天の役割)あり」
これは佐藤一斎の言葉である。明治時代の英傑たちは、明らかな「天役(天の役割)」を自認していたのかもしれない。
出典:致知2012年11月号
「儒者たちの系譜 佐藤一斎」
2012年10月15日月曜日
やさしさこそが大切で、悲しさこそが美しい
「やさしさこそが大切で
悲しさこそが美しい」
これは、山田康文くんの詩の一節。彼は生まれた時から全身が不自由で、口も利けなかった。重度の脳性麻痺である。
「ぼくさえ生まれなかったら
かあさんの白髪もなかったろうね
大きくなったこのぼくを
背負って歩く悲しさも
『かたわな子だね』とふりかえる
つめたい視線に泣くことも」
生前、ひと言の言葉も発し得なかった少年。
養護学校の先生の気の遠くなるような作業がなかったら、この詩が生まれることはなかった。
この詩を書き上げた2ヶ月後、少年は元いたところへ帰って逝った…。
出典:心に響く小さな5つの物語 (小さな人生論シリーズ)
真楽。中江藤樹
「順境にいても安んじ、逆境にいても安んじ、
つねに担蕩々として苦しめるところなし。
これを真楽というなり。
よろずの苦を離れて、この真楽を得るを学問の目当てとす(中江藤樹)」
出典:心に響く小さな5つの物語 (小さな人生論シリーズ)
2012年10月13日土曜日
2012年10月11日木曜日
中国人ビザ緩和の不思議。菅直人
「菅直人氏。彼は物凄くズル賢い人間で、たとえば中国が国防動員法を交付した2010年7月と同じ時に、中国人が観光目的で日本に入国できるビザを劇的に緩和しているんです。
国防動員法は、万一戦争の事態になった時、中国政府の指令の下、日本国内にいる中国人は日本を相手に戦争をせよと義務づけた法律です。
一方、菅氏が緩和した観光ビザは、中国人が沖縄に最初に一泊しさえすれば、以降3年間は日本への出入り自由という条件まで付いている。
これは何を意味するのか。菅氏は中国共産党が潜在的人民解放軍兵士を無制限に日本に送り込むことを可能にしてしまったんです(西村眞悟・前衆議院議員)」
「私もそれを知った時は驚きました。この緩和は沖縄振興が名目で、確かに中国からの観光客は増えますけれども、なぜ3年間も自由に出入りできるのか、それによって何のメリットがあるのか、など多くの疑問が残ります(中山義隆・沖縄県石垣市長)」
出典:致知2012年11月号
「指導者の一念こそが国難を救う」
国民の「理想」と「生活」。徳富蘇峰
2012年10月7日日曜日
お互いの背中
2012年10月5日金曜日
ペットボトルからコップに注ぐ美しさ
「たとえば、最近は水を飲む時に、直接ペットボトルに口をつけますね。
しかし、古来日本では容器に直接口をつけて飲むという文化はなかったわけです。必ずコップに注いでから飲むという『美しい所作』がありました。
だから、リッツ・カールトン・ホテルでは、誰が見ていなくても必ず、コップに注いでから飲むことを徹底してきたんです。
裏方にいても必ずコップに移してから水を飲むホテルマンと、何も考えず直接ペットボトルに口をつけて飲むホテルマンとでは、3年経った時、明らかな違いが出てきます。1年じゃ分からない。
でも、5年経ったら、追いつけないほどの開きになる」
ソース:致知2012年11月号
「サービスの真髄を追求する 高野登」
「気遣い」と「気働き」
99℃と100℃の違い
日本は強すぎた
19世紀まで地球規模で進んだ西欧列強による「植民地」化時代にあって、アジアでは日本・中国・タイの3国だけが植民地化されずに生き残った。
その理由について、「日本は強すぎた、中国は広すぎた、タイはズルすぎた」という説がある。
戦国時代を見た宣教師ヴァリニャーノは「日本国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではない」と述べており、江戸時代前半に日本を訪れたというフランソワ・カロンは「日本は決して武力で押さえつけることはできない」と言っている。
また、「勇敢にして不屈」というのは、スウェーデン医師、カール・ツュンベリーの言葉である。
ソース:日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか
2012年10月3日水曜日
足下の泉。宮本輝
「どんな人に出会うかは『自分次第』なんですよ。そう思いません?
運の悪い人は、知り合う人もやっぱり運が悪い。ヤクザの下にはヤクザが集まる。性悪女は性悪男とくっつく。これは不思議なものです。仮に性格のいい人と付き合っても、次第に離れていきます。
だから、『嫁さんは立派だけど、亭主はねぇ…』なんていうことはなくて、家庭の中に入ってみたら、みんな似たもの同士ですよ。どちらか一方だけが悪いなんていうことはない。
それを分かりやすく言うと、『命の器』だと僕は言うんです。
どんな人に出会い、どんな人と縁を結んでいくのか。それはその人の『命の器』次第ということです。
その出会いの質を変えるには、自分が変わるしかないんです。
『足下を掘れ、そこに泉あり』という言葉がありますが、みんな自分の足元を掘っていたら必ず泉が湧いてくることを忘れているんです。
『あっちに行ったら水が出ないか、向こうに行ったら井戸がないか』と思っているけど、実は自分の足元なんです」
抜粋:致知2012年11月号
「作家・宮本輝さんに聞く 人生、山河あり」
2012年10月2日火曜日
三日坊主のススメ
「性、相近きなり。習、相遠きなり」
「性、相近きなり。習、相遠きなり」
もともと人間一人ひとり(性・せい)に大きな違いがあるわけではなく、誰もが相近きものです。
しかしながら、しつけや教育によって身についた習慣(習・ならい)により、人間的に大きな差がついてくるものだという教えです。
抜粋:致知2012年11月号
「性、相近きなり。習、相遠きなり」
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