2014年4月30日水曜日

『月山』冒頭 [森敦]


話:森敦


 ながく庄内平野を転々としながらも、わたしはその裏ともいうべき肘折(ひじおり)の渓谷にわけ入るまで、月山(がっさん)がなぜ月の山と呼ばれるかを知りませんでした。

 そのときは、折からの豪雪で、危く行き倒れになるところを助けられ、からくも目ざす渓谷に辿りついたのですが、彼方に白く輝くまどかな山があり、この世ならぬ月の出を目のあたりにしたようで、かえってこれがあの月山だとは気さえつかずにいたのです。

 しかも、この渓谷がすでに月山であるのに、月山がなお彼方に月のように見えるのを不思議に思ったばかりでありません。これからも月山は、渓谷の彼方につねにまどかな姿を見せ、いつとはなくまどかに広がる雪のスロープに導くと言うのをほとんど夢心地で聞いていたのです。それというのも、庄内平野を見おろして日本海の気流を受けて立つ月山からは、思いも及ばぬ姿だったからでしょう。



 その月山は、遥かな庄内平野の北限に、富士に似た山裾を海に曳く鳥海山(ちょうかいさん)と対峙して、右に朝日連峰を覗かせながら金峰山を侍らせ、左に鳥海山へと延びる山々を連瓦させて、臥した牛の背のように悠揚として空に曳くながい稜線から、雪崩るごとくその山腹を強く平野へと落している。

 すなわち、月山は月山と呼ばれる”ゆえん”を知ろうとする者にはその本然(ほんねん)の姿を見せず、本然の姿を見ようとする者には月山と呼ばれる”ゆえん”を語ろうとしないのです。

 月山が、古来、死者の行くあの世の山とされていたのも、死こそはわたしたちにとってまさに”ある”べき唯一のものでありながら、そのいかなるものかを覗わせようとせず、ひとたび覗えば語ることを許さぬ、死の”たくらみ”めいたものを感じさせるためかもしれません。



 じじつ、月山はこの眺めからまたの名を臥牛山(がぎゅうざん)と呼び、臥した牛の北に向けて垂れた首を羽黒山(はぐろさん)、その背にあたる頂を特に月山、尻に至って太ももと腹の間の陰所とみられるあたりを湯殿山(ゆどのさん)といい、これを出羽三山と称するのです。

 出羽三山と聞けば、そうした三つの山があると思っている向きもあるようだが、もっとも秘奥な奥の院とされる湯殿山のごときは、遠く望むと山があるかに見えながらも、頂に近い大渓谷で山ではない。月山を死者の行くあの世の山として、それらをそれぞれ弥陀三尊の座になぞらえたので、三山といっても月山ただ一つの山の謂いなのです。



 標高一九八〇メートル。鳥海山のそれには僅かに及ばないが、東北有数の高山で、豊沃な庄内平野を生みなす河川は、ほとんどこの月山から出ているといっても過言ではありません。赤川(あかがわ)は言うに及ばず、最上川(もがみがわ)もあの肘折の渓谷の流れを入れて大をなしているのです。

 してみれば、庄内平野がこの世の栄えをみることができるのも、まさに死者の行くあの世の山、月山の”めぐみ”によると言わねばならない。このようにして、出羽三山、ことに湯殿への信仰はひとり庄内平野にとどまらず、あまねくこの国に行き渡ったと言えます。







引用:『月山』森敦


2014年4月29日火曜日

我なければ敵なし [猫の妙術]


話:古猫


勝軒これを聞きて曰く、
勝軒はこれを聞いて質問した。

何をか「敵なく我なし」といふ。
敵もなく我もないとは、どのようなことを言うのでしょうか。

猫曰く
古猫は次のように言った。

我あるがゆえに敵あり。
心の中に我があるから敵があるのです。

我なければ敵なし。
我がなければ敵はないのです。

敵といふは、もと対待の名なり。陰陽水火の類のごとし。
敵というものは、もともと相対するものの名称です。陰陽とか水火という種類のものです。

およそ物、形象あるものは必ず対するものあり。我が心に象(かたち)なければ対するものなし。
およそ物という物、形象のあるものには、必ず相対するものがあります。ところが、もし自分の心に何らかの象(かたち)がなければ、相対するものはありません。

対するものなき時は比ぶるものなし。これを「敵もなく我もなし」といふ。
相対するものがない場合は、比べるものもありません。これを敵もなく我もないと言うのです。

心と象と共に忘れて潭然として無事なる時は、和して一なり。
相手も自分も両方を忘れてしまって、深く静かに何事もない状態のときは、すべてが和して一つなのです。

敵の形をやぶるといへども我も知らず、知らざるにはあらず、ここに念なく、感のままに動くのみ。
たとえ敵の形を破ったとしても自分ではわからない。いや、わからないのではなくて、そのことに意識を留めることがなく、ただ感ずるままに動いているのです。






引用:佚斎 樗山『猫の妙術

2014年4月26日土曜日

Web履歴から予測される「妊娠スコア」




これはTargetという会社のロゴ
So this is Target, the company.

この哀れな妊婦のお腹に ロゴを意味もなく 貼りつけたのではありません
I didn't just put that logo on this poor, pregnant woman's belly.

雑誌フォーブスに載った逸話を ご覧になったかもしれません 。Targetはこの15歳の少女が 親に妊娠を打ち明ける2週も前に 哺乳瓶、おむつ、 ベビーベッドの 広告とクーポン券を 送りつけたのです
You may have seen this anecdote that was printed in Forbes magazine where Target sent a flyer to this 15-year-old girl with advertisements and coupons for baby bottles and diapers and cribs two weeks before she told her parents that she was pregnant.



父親は激怒しました
Yeah, the dad was really upset.

Targetは 親さえ知らない 高校生の少女の妊娠を どうして知っていたのか?
He said, "How did Target figure out that this high school girl was pregnant before she told her parents?"



判明したことは 彼らには 何十万という顧客の 購入履歴データがあり 彼らが言う所の 妊娠スコアというものを計算したのです
It turns out that they have the purchase history for hundreds of thousands of customers and they compute what they call a pregnancy score,

単に妊娠の判断だけでなく 予定日の推定さえするのです
which is not just whether or not a woman's pregnant, but what her due date is.

すぐそれと分かる購入品— 例えばベビーベッドや 赤ちゃん服だけでなく いつもよりビタミン剤を 多めに買ったとか おむつを入れるのに必要であろう 大きな手さげカバンを 買ったということから 推測するのです
And they compute that not by looking at the obvious things, like, she's buying a crib or baby clothes, but things like, she bought more vitamins than she normally had, or she bought a handbag that's big enough to hold diapers.

それぞれの物は 購入したからと言って 何かがばれる訳ではなさそうですが
And by themselves, those purchases don't seem like they might reveal a lot,

そういった購入行動のパターンを 他の数千人の人々のデータと 照らし合わせることによって その意味が見えてきます
but it's a pattern of behavior that, when you take it in the context of thousands of other people, starts to actually reveal some insights.







フェイスブックには 月間ユーザーが12億います
Facebook has 1.2 billion users per month.

つまり地球上のインターネット人口の― 半分がフェイスブックを利用しています
So half the Earth's Internet population is using Facebook.

他のサイトと同様に ITのスキルが殆どなくても ネット上の人格を作ることができる
They are a site, along with others, that has allowed people to create an online persona with very little technical skill,

そんなサイトであり 人々は個人的な情報を大量に 投稿してきたのです
and people responded by putting huge amounts of personal data online.

その結果 何億という人々の 行動パターン 好みや人口統計データなどが 得られるのです。こんなことは 過去には有りませんでした
So the result is that we have behavioral, preference, demographic data for hundreds of millions of people, which is unprecedented in history.



私のようなコンピュータ科学者にとって これは意味深く 私は人々が共有した情報から 本人が公開しているとは思いもしない 多くの隠された特性を予測できる モデルを構築することができました
And as a computer scientist, what this means is that I've been able to build models that can predict all sorts of hidden attributes for all of you that you don't even know you're sharing information about.

科学者はそれによって 人々の— ネット上での交流を 手助け出来るのですが そんなに利他的でない 応用もあります
As scientists, we use that to help the way people interact online, but there's less altruistic applications,

問題はユーザーが この様な技術の存在やしくみを理解せず たとえ知っていたとしても コントロールする手段が無いことです
and there's a problem in that users don't really understand these techniques and how they work, and even if they did, they don't have a lot of control over it.









引用:TEDxMidAtlantic 2013
ジェニファー・ゴルベック Jennifer Golbeck
カーリー・フライの謎解き — ソーシャルメディアでの「いいね!」があなたの秘密を明かす?
The curly fry conundrum: Why social media “likes” say more than you might think

2014年4月22日火曜日

奇きわまって正 欧陽詢の書


話:佘雪曼(しゃせつまん)


 欧陽詢(おうようじゅん)は陳、隋より唐の初期にかけての書家である。

 詢は顔かたちが非常に醜かったが、たいへん聡明で、いつも本を読むのに数行を一度に読み下した。詢は初め王羲之(おうぎし)の書を学んだが、のち次第に書風が変わり、筆力の強いことでは、当時及ぶものがなかった。人々はその書簡などを手に入れると、みなお手本にしたという。高麗(朝鮮)でもその書を重んじて、千里の道をも遠しとせず、使者を遣わしてその筆跡を求めさせたほどであった。

 ある日かれは、路辺に晋代の名書家・索靖(さくせい)の書いた碑を見て、二、三歩行き過ぎたがまた戻り、その傍に三日とまり、ようやく帰った、と伝えられる。

 欧陽詢は隋の時代に育った人である。書学を深く研究し、青年時代には王羲之の黄庭経(こうていきょう)を習ったことがある。貞観のはじめ、さらに蘭亭叙(らんていじょ)をも習っている。だからその結体は晋の法にかない、健康でたくましく、またよく整っているのである。これが南派の特徴である。

 だが、欧陽詢の厳つく強いところ、すなわち筆を下すこと、刀で斬り斧で裂くような切れ味のよさは、北派の影響である。かれが書いた房彦謙(ぼうげんけん)の碑は、かれが北派の書家であることを示している。この楷書と隷書の筆法を混ぜたような書体、刀を折ったような筆の入れ方が、すなわちその証拠である。

 字を書くのに、穏やかなのは易しいし、奇抜なのも易しい。だが欧陽詢の書は、奇抜なのに穏やかに見える。奇きわまって正となったのである。これは容易なことではない。なぜかというと、かれは字の結構を深く研究し、そうした実践の中からはじめて自己を創造し得たのである。

 店や画の俯仰向背、分合聚散は力の均衡にかない、それによって混んだところ、空いたところ、曲がったところ、平らなところが適当に布置され、変化に富んだものとなっているのである。だから彼の字は、混みいっていても、空いていても、しっかりと落ち着いているのである。これは身を傾けて車を速く走らせる姿が、いかにも安定して美しく見え、また決して倒れないようなものである。欧陽詢の書の結体のうまさは、まさにこうしたところにある。

 つまりその特徴は、王羲之父子の技法に、北碑の強いところ、さらに漢隷、章草など、種々の要素をとり入れ、思い切った新しい様式を生み出したところにある。一つのものにとらわれるということがないので、その書いた字は、角ばっていても筆に丸みがあり、穏やかでありながら強いのである。そして南北両方の長所を兼ねそなえているのであって、わが国(中国)の書法芸術に新たな境地を開拓したものといえよう。






 引用:楷書 九成宮醴泉銘(欧陽詢) (書道技法講座)


「おのずから」 [鈴木大拙]


話:志村武


先生(鈴木大拙)は

「『誠はおのずから成るなり』というが、その『おのずから』が大切なのだ。『おのずから』にかえるようにしなければならぬ。それが一番大事なのだ」

 といわれているが、先生の目の前には、先生だけにしかできない仕事が山のように積み上げられ、それを先生は

「疲れたら寝るのだ。いつでも眠くなったら眠る」

という態度で次々と片づけていかれた。つまり「おのずから」処理していかれたのである。



この「おのずから」については、名著『無心ということ』のなかで次のように述べられる。

「もうそろそろ雁がわたって来る季節になりますが、雁が天空を飛ぶと、その影が地面のうえのどこかーー否、この目前にたたえられている水の上にちゃんと映っているではないか。雁には自分の姿を映そうという心持ちはないのだし、水にも雁の姿を映そうという心がない。一方には跡をとめる心がなく、また片一方にはそれを映しておこうという心もないが、雁が飛べばその影が水に映る。心なきところに働きがみえる…」

心なきところに見える働きが「おのずから」であり、その無功用行(むくゆうぎょう)のうちに、鈴木大拙の幸福があったのだといえる。

大拙「幸福は苦しみを超越したところにある。幸福は因果応報を出たところにあるのだ。だが、それを出るということは、因果をはなれて因果を見るのではない。因果のなかに入っていながら、それが楽しみそのものになるのだ。禅宗のほうではこの点を強調する。地獄へいって、針の山にいるのが苦しいかというと、自分を捨てているとすれば、その苦しみに苦しみながらも、それが楽しみになるかもしれん…」

西田幾多郎「大拙は身辺に事があると、こまる、こまる、といっているが、あまり困っているようでもなかった」



先生の人生には、春になると花が咲き、冬になると雪が降るというような、自然そのままの味わいがあった。先生は、微風にそよぐ一輪のコスモスにふと足をとめる。

「花はよく春を忘れないで咲くものだ。花自身からいえば、花咲くのではない。ひとりでに咲いて散るだけのことだ。花はなんの造作もなく、無為にして咲き出てくる…」




引用:
「也風流庵 家語」志村武







銅羅ひと打ち [鈴木大拙]


話:柳宗悦


 ある日日差しのよい秋のことであったが、差し込む日光を浴びつつ、その室で先生(鈴木大拙)と話をしていた時、たまたま来客の報らせがあった。絶えざる来客に悩まされている先生は、少し迷惑そうな顔をされた。

 野暮くさい身形をした通訳を伴って、西洋の婦人がまもなくその室に入ってきた。先生は「何御用かなあ」と英語で尋ねられた。すると、その婦人は「仏教のことをお伺いに上がりました」と答えた。

 その時、先生はすぐ仏壇のほうに向き直られて、朱塗りの握り手のあるバイ(打ち棒)を取って、いきなり備えつけてある平銅羅をひと打ちされた。この銅羅はとても良い音のする一個で、往年文庫のために私が京都で幸運にも探し出したものなのである。もとより静寂な丘上の文庫に急に余韻のある音が響き渡った。

 その時、先生はまた客のほうに向き直られ、「お聞きなさい、ここに仏教がある」と、ただ一言簡単に答えられた。響きが静かに余韻を残しつつ消えて行った時、その婦人はこの応答に気を奪われてか、何も言わず、ただ「サンキュー」といって、軽く会釈した。この瞬間の光景はなかなか劇的で、私には忘れ難い印象として残った。

 その婦人は、この会話であとは何も言わず、そこそこに辞して行った。何という名の人であったか、また何国人だったのか、そんな事は私も覚えていないが、その折の鐘の響きと先生の一語とが耳の底に残って、今も離れぬ。




引用:
「“かけがえのない人" 鈴木大拙先生のこと」柳宗悦


2014年4月20日日曜日

竹影と月 [鈴木大拙]


話:玉城康四郎


 それでは、悟りの事実とは、どういうことであろうか。

 彼(鈴木大拙)によれば、”禅の事実”と”禅の哲学”とは、きびしく区分されている。世の多くの禅学者は、この2つを混同しており、そのために禅の生命を見失っている、という。

 ”禅の事実”というのは、生活そのものである。日々の経験そのものである。手を動かし、足を運ぶ、そのことである。これに対して、手を動かすのは自分である、足を運ぶのは自分である、という意識が出てくると、立ちどころに、禅の事実は消える。それは分別の世界にすぎないからである。禅の事実は、分別のかかわらない行為そのものである。だから、感覚の世界のほかに超感覚の領域がある、といっても、また、相対我を越えて絶対我が存在する、と説いても、それはすべて哲学にすぎない、禅の事実ではないことになる。

 しかるに、われわれの日常生活は、つねに分別にとらわれているから、その分別を突破るところの禅体験が要請されたのである。



 このような禅の事実を、われわれの心構えから押していくと、”無心”という態度が出てくる。彼(鈴木大拙)は、この無心ということに異常に情熱をよせ、つねにこの無心の世界にあることに、たゆみない精進を重ねていったと思われる。

 無心の代表的な表現として、彼は好んで次の句を引く。

「竹影、階(きざはし)を払って塵動かず、月、潭底(たんてい)をうがって水に痕(あと)なし」

 竹の葉がそよいで、その影を石段の上にゆるがすが、段の上の塵は少しも動かない。また、月が淵の底をうがって影を落としているが、水にはその跡形もない。

 これはいかにも詩的であるが、そのまま無心の世界をあらわしている。ここには、もはや無心という態度さえもない。われわれのいかなる態度も消滅してしまって、あたかも木石のごとき観がある。第三者から見れば、とりとめもなく茫漠としているが、その人自身にとっては、これ以上確かな世界はない。



引用:
鈴木大拙『道の手帖
「仏教思想の国際性」玉城康四郎


2014年4月17日木曜日

ねずみ小僧の話 [木村荘八]



話:木村荘八


 …小汚い右手の渡廊下の奥の奥に、例の治郎太夫、鼠小僧の墓が——そう言ってはこの侠盗の故人に気の毒ながら、まず外後架といった、むさくるしい感じに、辛くも残存するのを見た。しかし、この墓の囲いに使われている鉄柵は、今になって見ると、珍重すべき明治美術品の断片である。

 八丁堀無宿治郎太夫こと、次郎吉、天保年間の書きものの小書きに「深川辺徘徊博奕渡世致居候」とある名物男で、泉町の生まれであったから、いづみ小僧といったのを、動作が敏捷だったので「ねずみ小僧」と転訛したものだろうとう説は、正しいかどうか。なんでも二十九の頃から「盗賊相働き屋敷方奥向並長局金蔵等に忍入り」というから、今の大衆ものの本家である。

 「大名は九十五カ所右のうち三四度も忍び入候処も有りの由」それで結局「〆八十軒ほどは荒増覚居候由、このこと限り無御座候この金高三千二百両ほど」。

 そして、その商家大名から盗んだ金は貧民に分けたといふのだが、天保三年に捕まったときの、筒井伊賀守組同心相場半左衛門…か誰かに取られた調べ書きでは、その金を自分で「盗金は悪所さかり場にてつかい捨候」と自供したというのである。連累が貧民に及んではいけないので、みな自分でかぶったという。

 三千二百両はやはりそのとき自供した盗金の金高であるが、じつはおよそ一万二千両ほどに及んだだろうという。現在の金に換算したらどのくらいの金高になるだろう。

「右次郎吉吟味相済八月十九日引廻しのうえ、小塚原にて獄門に相成候」

 次郎吉は大盗であるが、しかし当時は盗られる方にも器量があったとみえて、ある大名の奥方の寝所に忍び込んだときに、彼が奥方の手文庫を盗んで今立ち去ろうとすると、寝ていた奥方が静かに床の中から声をかけて「後を閉めて行けよ」といわれた。これには次郎太夫のほうが参ったということである。





引用:木村荘八「両国今昔








2014年4月14日月曜日

人馬一体、”動いて動くものなし”



引用:天狗芸術論


問ふ

何をか動いて動くことなしといふ。

曰く

汝、馬を乗る者を見ずや。

よく乗る者は、馬東西に馳すれども、乗る者の心泰(ゆたか)にして忙しきことなく、形静かにして動くことなし。

ただ、かれが邪気を抑へたるのみにて、馬の性に逆ふことなし。ゆえに人、鞍の上に跨(また)がって馬に主たりといへども、馬これに従って困(くる)しむことなく、自得して往く。馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、精神一体にして相離れず。

これを鞍上に人なく鞍下に馬なしともいふべし。これ動いて動くことなきもの、形に表はれて見やすきものなり。

未熟なる者は、馬の性に逆って我もまた安からず、つねに馬と我と離れて、いさかふゆえに、馬の走るにしたがって五体うごき、心忙しく、馬もまた疲れ苦しむ。ある馬書に、馬の詠みたる歌なりとて、

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり

これ馬に代りてその情を知らせたるものなり。

ただ馬のみにあらず。人を使ふにもこの心あるべし。一切の事物の情に逆ふて、小知を先にする時は、我も忙しく、人も苦しむものなり。





【現代語訳(石井邦夫)】

次のような質問があった。

”動いて動くことなし”とは、一体どのようなことを言っているのであろうか。

次のように答えて言った。

あなた方は乗馬者をよく見るだろう。上手な乗馬者は、馬を東西に走らせても心は安泰でせわしいことはなく、その姿も静かでゆれ動くことがない。外から見れば、馬と人が一体になっているようである。

しかしそれは、ただ彼が自分の邪気を抑えているだけのことで、馬の性質に逆らうことがないのである。それだから、人が鞍の上にまたがって馬の主になっていたとしても、馬はそれに従って苦しむこともなく、納得して走っていくのである。

馬は人を忘れ、人は馬を忘れて、気持ちが一体になってお互いに離れることがない状態、これを”鞍上に人なく鞍下に馬なし”とでもいうのであろう。これなどは”動いて動くことなし”ということが具体的な形に表れて、わかりやすい例である。

未熟な者は馬の性質に逆らってしまい、自分もまた安泰ではなく、つねに馬と自分の気持ちが離れて、争ってしまうために、馬が走るにしたがって身体が揺れ動き、心がせわしくなり、馬もまた疲れて苦しむのである。

ある馬術書に、馬が詠んだ歌として、次の和歌がある。

打込みて ゆかんとすれば 引きとめて 口にかかりて ゆかれざるなり
(集中して走り込もうとすると引き止められ、手綱が口にかかって前に行かれないんだ)

これは馬に代わって馬の気持ちを伝えたものである。

ただ馬だけではない。人を使う場合にも、このような気持ちはあるであろう。一切の物事の状況に逆らって小賢しい知恵を先に働かせてしまうような場合は、自分でもせわしなく、他人も困らせてしまうものである。





 引用:天狗芸術論・猫の妙術 全訳注 (講談社学術文庫)

2014年4月12日土曜日

薬としてのコーヒー [岡希太郎]



話:岡希太郎(金沢大学コーヒー学講座講師)


 巷(ちまた)では、コーヒーは体に良いという情報もあれば、体に悪いから飲まないといった意見も根強くあり、一体どちらを信じればよいのか疑問を抱いている方も少なくないようです。

 コーヒーに関して昔からよく言われてきたのは、飲むと目が冴えて夜眠れなくなる、トイレが近くなるといったことです。コーヒーが体に悪いというイメージは、主にこの2つからきているようです(あるいは、妊婦・授乳婦が飲むのを禁じられたりすることも、ネガティブなイメージに結びついているようです)。

 これらはいずれも”カフェイン”が悪者になっています。しかしながら最近では、カフェインはパーキンソン病やアルツハイマー病などの神経病、そしてガン全般に効果があることが明らかになっています。私がコーヒー研究をはじめるきっかけとなった野田光彦先生の論文には、コーヒーを飲んでいる人は、糖尿病(2型)になりにくいと書いてありました。

 また、ソモザ博士(ウィーン大学)は、コーヒーのカフェインと、豆を焙煎したときに出てくる”NMP(N-メチルピリジニウムイオン)”に、細胞のガン化を防ぐ効果があるという論文を発表しています。さらにツァオ教授(南フロリダ大学)は、パーキンソン病にいたる運動神経の障害をカフェインが防ぐことを説いており、同様の理由で、「神経障害の一種であるアルツハイマー病になりたくなければカフェインを摂取すべきだ」と主張しています。



 コーヒー豆の成分で、病気予防の効き目に関係することが明らかになっているのは、

「カフェイン」
「クロロゲン酸」
「ニコチン酸」
「NMP(N-メチルピリジニウムイオン)」

の4つです。

 「クロロゲン酸」には、抗酸化作用、食後の急激な血糖の上昇を抑える作用(糖分の吸収を遅くする作用)、副交感神経を刺激して血圧を下げる作用、肝臓や筋肉での遊離脂肪酸の分解促進などの作用があり、「カフェイン」と一緒に摂ることで、生活習慣予防に欠かせない要素となるのです。

 「ニコチン酸」は、高脂血症を治療する医薬品にもなっており、ストレスが原因でおこる脂肪組織からの遊離脂肪酸の流出を抑える働きがあります。また、血管壁を保護したり、血小板の活性化を抑えて血液を固まりにくくしたりする作用ももっています。

 「NMP(N-メチルピリジニウムイオン)」は、副交感神経を刺激して気分を和らげ、大腸の蠕動(ぜんどう)運動を亢進させたり、血圧を下げたりします。また、強い抗酸化作用があり、発ガン性物質の解毒にも寄与しているといわれています。



 ここで、こうした健康効果を高めるための、とっておきのコーヒーの選び方をご紹介したいと思います。

 それは、「深煎り豆」と「浅煎り豆」をブレンドすることです。

 「クロロゲン酸」は熱に弱いため、その分解を防ぐためにはコーヒーを焙煎するさいに浅煎りに留める必要があります。しかし、浅煎りでは得られないのが「ニコチン酸」と「NMP」です(生豆に大量に含まれているトリゴネリンが、熱を加えることにより変化して生じる成分だからです)。

 要するに、浅煎りと深煎りをブレンドして飲むことによって、4つの成分がそれぞれにもつ病気予防の効果をまんべんなく享受することができるわけです。浅煎りと深煎りの豆の両方を入手したら、それを「1:1」にブレンドして飲めば、コーヒーの有効成分をまとめて摂ることができるのです。



 では、コーヒーを「飲む量」についてはどうでしょう。一日何杯までなら大丈夫かというのは、気になる人も多いと思います。

 あくまでも各人の体質や体調によって異なりますが、一日にコーヒーカップ「4杯」くらいまでなら、おおむね安全と考えてよいでしょう。

 たとえば、一日に飲むコーヒーの量と脳卒中になるリスクの関係でいえば、1杯、2杯とコーヒーの量を増やしていくにつれてリスクは下がり、4杯のときに最も小さくなります。それを超えると逆に上昇してゆき、9杯に達すると薬事法によるカフェイン摂取量の上限に達します。



 最後に、健康を意識した美味しいコーヒーの淹れ方をご紹介しましょう。

○ 浅煎りと深煎りを1:1にブレンドしたコーヒー10gを用意する。

○ 90℃以下のお湯で、ゆっくり抽出する(布または紙のフィルター)。

○ 最初に出てくる50ccを飲む。

 最も美味しいのは「最初に出てくる50cc」までで、そこに有効成分の90%以上が入っているのです。その後から出てくるのは雑味で、抽出すればするほど不味くなります。

 ちなみに、こうして抽出したコーヒーの有効成分は一日は持ちますので、私は朝淹れておいたものを、夕方にも温めて飲んでいます。





出典:
致知2014年4月号「コーヒーで病気を防ぐ」岡希太郎





2014年4月11日金曜日

一茶のもとめた梨 [藤沢周平]


話:藤沢周平


 今日は薬が切れる日なので、一茶(いっさ)は医者に薬をもらいに来たのだが、もうひとつ買物があった。(父)弥五兵衛がしきりに梨を喰いたがっていた。

 一茶の家の者は、親戚知人をたずね回って梨を探したが、季節はずれの秋の果実を残している家はなかったのである。善光寺へ行けば、どこかにあるかも知れないという気がした。一茶は薬もらいの役をひきうけ、ついでに梨を探すつもりで、朝早く柏原を発ってきたのである。

 一茶は梨を喰わせたかった。弥五兵衛の容態は、野尻の医者がサジを投げたころにくらべると、幾分元気が出て、時どき異常な食欲を示したりしたが、それが回復につながるものかどうかはわからなかった。むしろ少しずつ痩せ衰えて行くように見えることもあった。

 喰いたいというものを与えなかったら、後で悔いが残るかも知れないという気もした。そして、何よりも梨を見て喜ぶ父の顔が見たかった。



 一軒の青物屋に、一茶は入って行った。

「梨を置いてませんか」

「梨? いまごろ?」

 店の者は、一茶を怪訝そうに見た。

「あれは秋のものですよ、あなた」

 商いにならない客とみると、店の者の口調はそっけなく変わった。

「いまごろ置いてるはずはありませんや」

「季節はずれはわかっていますが、どっか残っている店はないものかと思いましてな」

「そりゃ無理だよ、あんた、いまごろ梨なんて」

 店番の男の表情は、はっきり嘲笑になった。

「ほかのもんじゃ間に合わないんですかね」

「いや、私がほしいのは梨です」

 と一茶は言った。かたくなな気持になっていた。一茶はものも言わずにその店を飛び出した。



 一茶は、青物屋、乾物屋をみかけると、片っぱしから入りこんで、梨はないかと聞いた。そして次次にことわられた。最初の店のように嘲りはしなくとも、大方はそっけない返事をした。

 ことわられるたびに、一茶の頭の中で、一個の梨はみずみずしくかがやきを増して行くようだった。だが、梨は見つからなかった。形さえあれば、干からびたようなものでもいい。最後に一茶はそこまで執着したが、結局は無駄歩きだった。

 善光寺の門につづく、ゆるやかな坂道の途中で、一茶は立ちどまった。あきらめるしかなかった。やはり無理だったと思った。そう思ったとき、梨はようやく光を失って、一茶の熱い頭の中から消えて行った。






引用:『一茶』藤沢周平


欧陽詢の、醜い容貌と整斉たる書


引用:臨書を楽しむ〈1〉欧陽詢 九成宮醴泉銘





 欧陽詢(おうよう・じゅん)の風態から想起されたと思われる話で、『太平広記』に収録されている「補江総白猿伝」という欧陽紇(こつ)・詢(じゅん)親子にまつわる伝奇小説があります。

 大勢の婦人を山奥へさらうという人間離れした膂力と学識をもった白猿(神)が、欧陽紇の妻をさらって自らの妻妾とします。紇は、奪われた妻を捜して白猿の住処にたどり着き、婦人たちと策略を練って白猿を殺すのですが、そのとき妻は白猿の子を身籠っており、それが欧陽詢だというのです。

 これは、欧陽詢の顔が猿に似ているのを後人が嘲り誹謗するために書かれたものとされていますが、別の観点でみれば、逆説的に彼の人間離れして秀でた一面を、白猿の子供とすることで称揚したものとも考えられます。



 欧陽詢は名臣として、また書家としてつとに名が知られています。しかしその事跡についての記述が、じつはほとんどありません。『旧唐書』『新唐書』にわずかに伝えるのみです。

 欧陽詢の父・紇は、陳の広州刺史として仕えていましたが、謀反の兵を挙げ誅されました。本来なら、息子である詢も連座して罪にしたがうべきところを辛くも免れ、父の友人である江総(こうそう)に引き取られました。彼は陳では登用されなかったものの、随の時代に太常博士(儀礼官)となります。

 随の碑や墓誌銘、経文などには、北朝の険峻な古法と、南朝の洗練された感覚が融合された、美しい楷書の名品が数多くあります。当然、彼もそれらの文字を目の当たりにし、少なからず影響を受けたことでしょう。欧陽詢が60歳を越してから唐に仕えたことを考えると、彼の整斉として独特の厳しさをもつ楷書は、この時期に養われ昇華されたものでしょう。

 その後、唐の高祖が即位すると、給事中(皇帝の側近)に抜擢されます。太宗の治世で太子卒更令、弘文館学士に任じられたのち、渤海県の男爵に封ぜられました。



 こうした略歴のほかに、彼の面容について、正史では「貌はなはだ寝陋」とあります。「寝陋(しんろう)」とは、醜い容貌のことです。

 正史はさらに、高祖が高麗では欧陽詢の書が重んじられ、使者を派遣してまでこれが求められている、ということを聞くと「欧陽詢の書名が遠く夷狄の地に伝わっているとは思いもよらなかった。彼の筆跡を見るに、まったく彼の容貌など想像もできないだろうに」と感嘆した、と続きます。

 冒頭でご紹介したような小説の題材となったり、高祖が嘆息するほど、きっと彼の容姿は醜かったのでしょう。しかしまた、このような逸話が残るということは、それだけ彼の聡明さと書の美しさが、容貌に反して際立っていたということを、世の人々が強く認識していたということでしょう。







2014年4月9日水曜日

「点の思想家」 鈴木大拙


話:増田文雄


 たとえば、先ほど申しました田辺元先生が、どこかで批評をされましたときに、その弟子の北森嘉蔵という、これはキリスト教神学の日本の第一人者でありますが、うまい書き方をいたしました。

 田辺元という人がこういう思想家だということを、ズバリと書いたのです。それは「間の哲学者」であるという批評をしました。

 だいたい田辺元という人は、もとは理学部のほうを専門にやってこられた。そうして哲学のほうにやってきて、哲学者になったのであります(理学と哲学というのは、じつは近いのですけれでも)。そうすると田辺先生に一番はじめの問題はなにかというと、自然科学と哲学、そこの”間”でものを考える。それからいろいろな”間”でものを考える。自然科学と哲学、それから仏教に入ってまいりました。最後には、戦争と哲学、国家の地域と哲学と、いつも”間”で考えている。

 お釈迦さんの頭をみていきますと、第一に縁起というものを一番はじめにつかまえた。縁起は関係なのです。線で、これとこれとの関係はこうだという。だから、お釈迦様は「線の思想家」なのだと考えているのであります。



 なかには、いま申した柳宗悦先生のものなど読んでおりますと、あれは「否定の哲学」だ。「否定の思想家」だ。

 はじめにあの人はキリスト教をやりました。神を追求している。それからブレークをやり、朝鮮の美術をやり、日本の美術に帰ってくる。これを全部やり、これでもない、これでもない、これでもない、そうするとこれしかないじゃないかと、あの民芸にきました。そして美が民芸のなかにあるというのは、いったいどういうことであるかと、最後に一生懸命考えた。

 そうして民芸というのは、”成仏しようと思わないで成仏しておるのが、民芸ではないか”と言っていた。あるとき柳宗悦先生はわたしに、「ああ成仏しよう成仏しよう、悟ろう悟ろうという者は悟れくて、とても私には悟れないなどと、悟ろうなどという気持ちを全部捨ててしまった者が悟ってしまった。それですよ」と言われた。

 柳宗悦先生の文章を気をつけてずっと読むと、何々にあらず、何々にあらず、何々にあらずといった調子です。これはずっと否定して、いわゆる、クロス・アウトとしていって、そして最後に残ったものをとらえる、こういう思想家であります。






 いったい鈴木大拙という人は、どういう思想家だろうか。

 よく鈴木大拙のものには”体系がない”というようなことをいう人があるのであります。おもしろいことに、体系がないということで、西田幾多郎先生の『善の研究』の英文の序文に、西田幾多郎が、もう少しおまえも体系的にやれと私にいったというようなことを、鈴木先生がちょっと書いているのです。

 それからあるとき、先生にわたしは質問をしてみたのです。「先生の仕事には体系がないですね」といったら、「うん、そうだ。わたしは体系家じゃないよ」と、こういうのです。あとで考えてみると、つまらない質問をしたと思っておりますが、鈴木大拙の仕事というものの本質をつかまえてみると、それは、体系のなかで組み上げようなどというのは、その仕事の本質に反しておることなのでありまして、それだから先生が堂々と、おれは体系家じゃない、というのは当たり前の話だということに気がついたのです。

 そこで私は、それでは先生はどう考えますかといったら、「わしは何か一つつかまえると、そこから一点だけだんだん掘っていく。これはと思うものをパッとつかむと、ずっと掘り下げ、掘り下げ…」。錐(きり)みたいですねといったら、「錐よりは太いだろうね…。それじゃあドリルかなにかで穴を掘る井戸掘りみたいなものだな」と言ったのです。

 ”間”とか”線”とかいう言葉ですと、これは「点の思想家」だと私は考えております。そうして、これは表現はいかにあろうと、体系家でもなく、間で考える人でもなく、否定の哲学者でもなく、一点を掘り下げる哲学者であるのです。



 鈴木先生はたとえば、「わしの考えによると」というような文章の書きはじめかたを、よくやるのです。

 一番はじめに「according to my way of...」、こうくるのです。初めからポンと、私はこうみるのだよというわけですから、人がどうみようと、大乗諸家がどうみようと、そういうことは平気なのです。わしがみるとこう…。穴だけ掘っていくのですから、わしの見方はこうだ、というのが一番はじめに出てくる。

 私どもは、文献により仏陀が悟ったときはこうだったというような、その前後の歴史をずっと集めて描き出すのですが、鈴木先生はそんなやり方は絶対にしないで、「もしその時、わたしが仏陀のそばに立っておったとするならば…」と、その時にそこに立っておって、そうして仏陀という人の存在をじっと上からのぞいたらどんなものだったろうと、こういうのです。





引用:「鈴木大拙論」増田文雄


「所作すでに弁ず」 増田文雄


話:増谷文雄


仏陀が悟られて、しばらくしましたところに

「所作已(すで)に弁ず」

という言葉を吐いておられます。



 このことを私は、もちろん昔から知っておりましたのですが、私の師の姉崎正治先生が定年で退職したときに、記念文集ができました。先生、何という名前をつけますかといったところが、「已弁集(いべんしゅう)」と名をつける、とこう言う。

 変な名前だなと思ったのですが、”所作已に弁ず”というので、人は一生こうやってきて、”まあこれでいいわ”と思ったときには、こういう具合に言うのだなと感じたのです。私の先生は、定年退職しましたときに、所作已に弁ずと、こう言いましたわけです。






出典:「鈴木大拙論」増谷文雄


2014年4月7日月曜日

『労四狂』とは?


 談義本が江戸戯作の出発点であったことは疑いないとして、さて、戯作の面白さの一つが、その乾いた知的内容であることはもちろんだが、一方、表現の奇抜さ・新鮮さという面にもあることは言うまでもない。

 通常そのような戯作表現の先達として挙げられるのは風来山人の文章であるが、その風来に先立つその方面の魁(さきがけ)と、当の戯作者連中の間で明瞭に意識され、取り沙汰されていたのが、本書(『労四狂』)の著者・自堕落先生の”狂俳文”ともいうべき文章であるのだが、不思議なことになぜかこのことは、つい近年まで全く忘れられていた。

 本書『労四狂(ろうしきょう)』は、”近世中期の徒然草”と称すべき内容をもち、作者の死生哲学とでも言うべきものを述べている。人間が一生をおくるについて必ずつきまとう苦労、その結果として必ずとりつかれる心の病としての狂。智者は智に狂い、愚者は愚に狂い、その狂うと知って狂う者、知らずして狂う者、その症はこもごも四つ、そこで題して『労四狂』という。

 『労四狂』は無論、『老子経(ろうしきょう)』のもじりである。当時の老荘思想の流行がいかに大きかったかがうかがわれる。



【本文・序より(抜粋)】

智者は智に狂ひ、愚者は愚に狂ふ。

智者の智に狂ふは、愚者よりも病おもし。

その狂ふと、自ら知って狂ふ者あり、知らずして狂ふ者あり。

憐むべし、憐れむべし。

おのおの死してのち癒ゆべし。

狂なるかな、狂なるかなと、口をあき手をたたきて、十無居士北華※序。



十無居士:著者・自堕落先生の別名
北華:自堕落先生(本名・山崎凌明)の俳号






引用:
『新 日本古典文学大系 81』
田舎荘子・当世下手談義・当世穴さがし

2014年4月6日日曜日

「田崎休愚」の話 [民間さとし草]


 川尻といふ所に、田崎休愚といふもの、貧しかりしが、のちは郷士になりけり。

 若かりし時、舅(しゅうと)の方へ行くに、家産(みやげ)持ちて行かんとおもふに、さるべき物なかりければ、その辺にて小さき”ぎぎ”といふ魚を網して取り、それを持ちて行きしに、山中に猟師の網を張り置けるに雉(きじ)のかかりはためくあり。「これ、いと良きつと(贈り物)なり」と思ひて、やがてかの雉をとり、「ただにやは」とかの”ぎぎ”を代はりにかけ置きて過ぎぬ。

 さる後へ猟師来たりて、かの魚を見て、驚き怪しみて、「川のものの山網にかからんやうなし。これは神などのさとし(お告げ)にこそ」とおもひ、人々に語るに、同じように畏れければ、やがてさるべき験者むかへきて、ことのやう語るに、はたして「これ山の神の、この里に祟りあるべき徴(しるし)なり」とて、まずかの”ぎぎ”を桶に水たくわへて入れ、宮を作り、大明神と崇め祭るめり。

 さる程に、神、人に憑きて云やう、「我に贄(生け贄)を奉れ。さらずば一里の人、生けたらじ」とのるに、あるかぎり魂をけし、相はかり、黄金十両あつめて、「これに替えん命あらば」と近くも遠くも求むるに、「誰かえん」とて出る者なし。

 かの休愚おのこ伝へ聞く。やがて老いさらばへる姥(うば)、語らひ出てかの所に行き、「さること伝へききぬ、誠にや。己は貧しきが身にせまり、今は『身をや投げてん』『縊(くび)れてやうせなん』とおもへど、老いたる母さえありて、さることもえせで、苦しき月日を送るなり。そのこと空言にあらずば、これぞ天のたすけと覚ゆる。そも命の量、いくらばかりかは賜はらんや」といふ。

 里人ら悦びて、あるやう語る。「さはその金たまへ。母に持たせて、すかして(説得して)こそ帰りしはべらめ」と、かの姥に黄金もたせて、口に耳つけて何かいひけるが、姥は帰りぬ。「さは贄(生け贄)にそなはらん」とこふ。やがて、かの宮の前へ連れて行き、大なる板の上に結はへ付け、締め引きて、「あな憐れや。夜のほどに食われん。いかに苦しき目をか見んずらん」などいひて、里人は帰りぬ。

 丑三つ(午前3時頃)ばかりまでは、「もし窺ふ人もぞある」とためらひしが、「今は心やすし」とて、力声を出して両ひじ強くはるに、縄はぶつぶつと切れぬ。やおら起き上がり、宮の戸を開き、とうろの火してみれば、桶の中にかの”ぎぎ”、ありしよりも膨らかになりておるを引き出し、木の枝あつめ、豆汁して煮物とし、酒よよとのみ、舌うちして、いとなき物と食ひ尽くし、宮も鳥居も引倒して帰りぬ。いとおこのわざにこそ。

 世に神の祟りあるは、もののけ、狐などの人に憑くといふを見聞くに、まさしく神のみことのりめき、恨みある人のいふべきことをのり、狐の様して歩くなど、みな癇といふ。病にて神やうつりはまへるといへば、「又さりや」とおもふ。おもふよりやがて、さる物になるめり。それをとかで惑ふも癇の類ひにて、痴といふ病なり。心を覆はるるは、ともに等し。この物語の神の憑きたるにて見よ。これはたしるしとせずばあらじかし。



【解説(湯城吉信)】

 貧乏から金持ちになった田崎休愚という川尻の人がいた。

 休愚が若いとき、舅を訪ねるのに土産がなかったので、”ぎぎ”という魚を捕って出かけた。途中の山中で、猟師が仕掛けた網に雉(きじ)がかかっているのを見つけた。休愚は「これはいい贈り物になる」と頂戴し、その代わりに例のぎぎを置いていった。

 猟師が来て、川のものが山の網にかかっているのを恐れ、神のお告げなのではないかと思った。そこで、社が造られ、ぎぎという魚は桶に入れて大明神と崇め奉られた。さらに、「生け贄を奉らなければ村人を皆殺しにする」と神託があった。村人は恐れ、十両の金を集め、生け贄になる人を募った。

 この話を聞いた休愚は、母を連れて行き、「私は貧しくて自殺も考えるほどですが、老いた母のことを考えると死ねません。今回のことは天の助けかと思いました。私を生け贄にしてください」と語った。そうして、受け取った黄金を母親に持たせて帰らせ、自分は板に張りつけられ、社に捧げられた。

 夜中になって、縄を解いて、宮の中を見てみると、ぎぎが桶の中で以前よりも太っていた。そこで火をたき汁物にして、酒を飲んで食い尽くし、宮も鳥居も引き倒して帰った。

 世の中で祟りとか言っているのは、たいていこのような類いである。迷信はたいてい、根も歯もないことである。




出典:『民間さとし草』加藤景範

「突き抜き井戸」の話 [民間さとし草]



 この頃、難波の北なる里に、つきぬき井(突き抜き井戸)といふをなせり。

 まづ、その所を定めて、鉄の鉾の径一寸(3cm)あまり、長さ三丈(3m)、重さ二十四貫(90kg)なるを、一本づつ突き下し、四本をつぐ。その間に底の岩を三重つきぬく。深さ十丈(30m)ばかりにて、また岩(かなぶた)に当たるをとかく突き抜き、泉脈を得たりとて、鉾を抜き上ぐれば、泉(みず)地上へ六七丈(20m前後)ばかりほとばしる。その勢、水弩をもって弾きあげるよりも激し。

 これ旱魃の備えなりとぞ。一簣(ふご)の土をも取らずして、九原底(地の底)の水をひき上ぐること、いかなる機知よりたくみ出せるぞと驚かる。



 さて、つらつらおもふに、旱を救うは大なる益なれど、さほどめでたき技とも覚へず。

 地中に水あるを知りて、水脈を通ずる所まで掘って得る水が、天の与へたまふ水なり。何にても天より与へたまふ外(ほか)に人の智力を用いて取り出すは、天の恵みを不足におもふなり。天の恵みを不足におもはば、天の心にいかにおもひたまふべき。

 今、この突き抜きの技は、水脈の通ふところを越えて、地の底に幾重も抜くまじき岩(かなぶた)の隔(へだて)を、智力をもって無理に突き抜けて、得まじき水をあぐるなり。

 さて、水は下へ下へと下がるが水の天性なり。今この涌水は地上より空に上がるは水の変なり。変をなすは水の自然に逆ふなり。されば、いったん利益を得ることありとも、ついにはその害を得ることあるべし。

 また、これを羨みて国々にこれをせば、なおいかなる禍かあらんと、安からずおもふより、思ふところを書きつくるなり。博物の君子、この定めして、僻(ひが)ごとならば捨てよ。もし採るところもあらば、よく潤飾して世に伝へ諭さんことをねがふのみ。




引用:『民間さとし草』加藤景範


「曲突徙薪」のいさめ [民間さとし草]


事は未然に防ぐべきこと『曲突徙薪(きょくとつししん)』の喩え


 漢の宣帝のとき、霍光(かくこう)大功ありし故、帝に重んぜらる。霍光の妻顕はななだ良からぬ人にて、わが女(むすめ)を后に立んために、許皇后を毒害す。霍光あとにて是を聞、驚きながら、その妻をそのままにさしおけり。

 霍光死後、霍氏奢侈(おごり)甚しかりしに、徐生といふ人上書して、霍氏が権勢を抑へたまはんことを申上ける。その後、霍氏悪逆ますます甚しくて、天子を廃せんと謀りけるが、この陰謀をしる人、多くありて、追々これを告るより、事みなあらはれて、霍氏が一族、残らず誅せられ、かの陰謀を告るものに、皆重き賞を下されける。



 その時ある人、徐生に第一の賞あるべきを恨み、帝に書を奉りて申上けるは、「ある人わが知人の方に至り、厨下のかまどのいき出しのそばに、薪を積置たるを見て、主人に云やう、『この竈のいき出しを曲突にして、薪を竈遠き所に移されよ。さあらずば、かならず火の難あらん』と心つけけるに、主人耳にもとめず、そのままありしが、果してかの孔より薪に火移る。

 その近隣近村より人多く集りて命を限りにはたらき、からふじて打消したり。これにより、主人酒肴をおびただしく設けてかの集りてはたらきしものの、髪ひげを焦し手足に疵つきたる者を上座としてさまざま饗応せり。

 さて、かの曲突を云し人はおもひ出しもせず。ある人主人に云やう、『先に曲突をいひし人の言に従がはば、火の難もなく饗応の費もあるまじ。然るに、今、髪をこがし身に疵つけるものを上客として、曲突をいひし人を賞せぬか』と云ければ、主人やがてかの人を請じける。



 徐福(徐生)が霍氏の変あるべき兆しを見て、その威勢を抑へたまへと申あげたるとき、その言を用ひたまはば、霍氏も滅びず、褒賞の費もあるまじきに、今、霍家を誅滅せしとき、功ある者を賞して徐福を賞せられぬはいかが」と申あげしかば、帝聞しめし、やがて徐福に賞をたまひ、官職をすすめられしとなり。

 身の健やかなる時、病を醸する兆しを察し、家富栄ふるとき、衰へんずる萌を知て、その防ぎする人まれなり。さて、病あらはれて苦き薬、鍼灸をもとめ、神仏を祈 、その苦しみいふばかりなく、父母妻子にも心を苦しめさするなり。我はこころつかでも、他人のその兆を察していさむるを用ひば、我しるに同じくて、未病を治して病苦をのがれ、身をよく保つべし。

 大小軽重のことにつきて、曲突のいさめをおもふべきなり。



【解説(湯城吉信)】

 漢の時代、霍光(かくこう)は武帝に重んじられ、その一族はそれを頼みに横暴を働くようになった。それを憂えた徐福(徐生)は、霍氏を抑えるよう上書したが聞き入れられなかった。その後、天子の退位を企てる霍氏の陰謀が明るみになって初めて、(霍氏は)誅せられた。

 その時、陰謀を暴露した人だけを賞し、徐福が賞せられないのに納得がいかなかった人が、「曲突徙薪(きょくとつ・ししん)」の喩えを引いて、徐福こそ賞せられる人物であると主張した。以下、「曲突徙薪(煙突を曲げ、薪をうつす)」の喩えである。

 ある主人が、火事の危険性(煙突の先に薪が置かれていたこと)を指摘されていたにも関わらず、その言を聞き入れずに、果たして火事になった。幸い消火には成功し、主人は消火に功があった人々(ヒゲを焦がし、手足に傷を負った人々)に御馳走を振る舞った。

 その時、ある人が主人に「火事の危険性を指摘した人の言を聞き入れていれば、火事にもならなかったであろうし、馳走の出費もなかったであろう」と言って諌めた。

 

出典:
『民間さとし草』加藤景範
漢書『霍光伝』
民間さとし草 翻刻・註釈』湯城吉信



2014年4月5日土曜日

「本願が昇ってきたぞ」 [鈴木大拙]


話:内藤喜八郎


 鈴木大拙先生は、昭和41年(1966)の7月12日に95歳で逝去されたが、その一ヶ月前の6月13日に松ヶ岡文庫で、京都から上京された金子大榮先生と対談しておられる。同席した加藤辨三郎理事長は「世紀の対談」と称賛された。


 対談の最後に、加藤先生が一つ問いを出された。そのときの問答を加藤先生が自ら追悼号に書いておられる。


「”この身即ち仏なり”ということも理の上ではわかるのですが、実感としてはどうしても私は凡夫としか思えないのです。それはどうしたことでしょうと申しますと、(鈴木大拙)先生はこうおっしゃった。


『凡夫か、凡夫ね。ふーむ、誰がそう思わすか、そこがまことに微妙なところでね』


 これが私にとりましては、期せずして、先生の遺偈となったのです。私は終生、先生のあの温顔とともに、この遺偈を忘れないでありましょう」




 昨年の秋、その「世紀の対談」の舞台となった北鎌倉の松ヶ岡文庫を訪ねた。鈴木先生ご生前のままにのこされた洗面室のある二階へも通していただいた。そこには、先生ご逝去の年のカレンダーが書き込みを遺したまま張られ、洗面具もまだ棚にあった。


 洗面台の上に、東に向かって小さな窓が開いていた。そこから峡をへだてて円覚寺の山が見える。卒然と、その山の上に真紅の朝日が昇ってくる幻想にかられた。


 鈴木先生がひげを剃っておられた時、秘書の岡本美穂子さんに「本願」を問われ、顎に手を当てたまま考えておられた先生が、昇ってくる朝日を見ると、「ほーら、美穂子さん、本願が昇ってきたぞ」とおっしゃったという。単刀直入の本願であった。


 先生はいつも全体を全体のままつかまれる。分析したらいのちがなくなるのだ、と。「人は考えながら、しかも考えない。彼は空から降る夕立のように考える。じつに彼は夕立であり、海原であり、星であり、木の葉である」と。


 対象を裁断しない。全体まるごとの中に、無心に飛びこむ。その消息は、朝日そのものが自らに飛びこんでくる消息でもあった。






出典:『鈴木大拙 (道の手帖)


2014年4月4日金曜日

赤いニシンに騙されて [内田樹]


話:内田樹「初学者を極意に導く方法について(抜粋)」


 いったいどういう方たちがこの本(『天狗芸術論・猫の妙術』佚斎樗山)を買うのでしょう?

 

たぶん武道の稽古を始めて数年というくらいの人たちが購入者のヴォリュームゾーンではないかと思います。武道を稽古して五年、十年という人々が、この本のタイトルを知らないということはありえません。

 もし、あなたがかなりの年数にわたって武道を稽古してきたにもかかわらず、この2つの武芸伝書(『天狗芸術論・猫の妙術』佚斎樗山)の話を、師匠からもまわりの道友の口からも「一度も聞いたことがない」としたら、あなたが稽古しているのは武道ではなく、なにか別のものです。それは『風姿花伝』という書物の話をまわりの誰からも聞いたことがないという人が稽古している芸能は、たぶん能楽ではないというのと同じくらい確実なことです。

 武道家にとっての必読文献というものがあります。澤庵(たくあん)禅師の『太阿記』、『不動智神妙録』、柳生宗矩の『兵法家伝書』と並んで、この佚斎樗山(いっさい・ちょざん)の『天狗芸術論』と『猫の妙術』は、たぶんそのリストの初めの方に掲げられるものです。



 なぜ、この2つのテクスト(『天狗芸術論・猫の妙術』)が江戸時代から久しく武芸を志す者にとっての必読文献とされてきたのか? その理由について個人的意見を述べて、本書の解説に代えたいと思います。

 佚斎樗山(いっさい・ちょざん)は『天狗芸術論』の中で、当今の武芸者についてずいぶん手厳しい評言を下しています。
「今人情薄く、志切(せつ)ならず。少壮より労を厭ひ、簡を好み、小利を見て速やかにならんことを欲する(巻之一)」。今の人は速成を好む。面倒が嫌いで楽をしたがり、「どうやったらさっさと巧くなれますか」と聞いてくる。少ない修業で効率的に極意に達することのできる費用対効果のよい稽古をしようとする。それが当今の趨勢である、と佚斎樗山は嘆いています。

 江戸時代の半ばにして、すでに武士たちは昔のように「いいから黙って修業しろ」というだけでは稽古に励まなくなってしまいました。しかたがないので、師匠のほうから手を差し伸べて、初心者に極意のありかを示し、手をひいてそこまで連れて行くような教え方をせねばならなくなった。この書は、初学者の「手を執って」極意まで曳いて行くための本なのです。

 でも、極意というのは初学者に「はい、これが極意です」とお見せできるようなものではありません。極意が何かを知らない人間をあやまたず「極意のある方向」に導いてゆくにはどうすればいいのか?

 たとえて言えば、「京都がどこにあるか知らないで東京駅をウロウロしている旅行者を、西行きの新幹線ホームにまで連れて行く」ようなことをしなければならない。佚斎樗山のこの本が優れているのは、その点においてです。つまり、「京都がどこにあるか知らない旅行者」をとりあえず京都行きの新幹線に乗せてしまう。その実践的有効性において、本書は卓越しているのです。



 江戸に幕府がひらかれて平安の時代がすでに100年。武士たちにも、白刃をまじえる斬り合いのなかで極意を会得するというような機会はなくなってしまいました。でも、先人が命がけで完成した武芸の伝統は継承されなければならない。

 そういう特異な歴史的状況が要請したのが「初心者フレンドリーな伝書」です。そんな本が書かれたのは日本武道史上たぶんこの時が最初です。ですから、著者(佚斎樗山)はまったく独特の、それまでに前例のない構成上・文体上の工夫を余儀なくされました。

 それは初心者を”正しい方向にミスディレクトする”という方法です。「ミスディレクト」というのは「間違った方向に導く」ことですから、「正しい方向にミスディレクトする」という言い方は理論的に矛盾しているように聞こえるでしょうけれど、本当にそうなのです。

 もう一度さっきの比喩を使いますけれど、東京駅でウロウロしている旅行者を「正しい方向」に連れて行くために「京都はこっちだよ」と言ってもダメなんです。だって、「京都って何?」というレベルの旅行者なんですから。でも、とにかく西行きのホームに連れて行かなければならない。見ると、どうもお腹が空いているようである。すると「駅弁買いたいんじゃない? 駅弁こっちだよ」と手を曳いて、西行きホーム近くの売店に導く。

 そういうふうに、初心者でもわかるその都度の実践的な課題に解答するかにみせかけつつ、ほんとうの目的地に連れて行く。この「京都に連れて行くために駅弁屋に連れて行く」というのが、「正しい方向にミスディレクトする」ということです。



 極意というのは、先人がそれだけ身銭を切って獲得した知見です。初学者がぱらぱらと本を読んだくらいで、「なるほど、そうか。相わかった」と膝を叩くというような安直なことは起こりません。それなりの手間暇をかけなければ「たいせつなこと」はわからない。

 でも、はじめから「手間暇がかかる」と言ってしまうと、「労を厭ひ、簡を好む」初学の人は「そんな面倒なことなら、僕はいいです」と修業をやめてしまう。それでは困る。そこで、初学者をして、それと気づかぬうちに、彼らの理解を絶した境地へと誘うための「仕掛け」を施したわけです。正しい旅程を歩むために、初学者は”大いなる迂回”をしなければならない、というのが著者(佚斎樗山)の戦略でした。

 そのために「わかりにくいことを、わかりやすい言葉で書く」という戦略を著者は採用したのです。どうしてこの戦略が有効かというと、それは「わかりやすい言葉」が「レッドヘリング(赤いニシン)」として機能するからです。



 「レッドへリング(赤いニシン)」というのは、ミステリーなどで読者を間違った解答へ導くミスディレクションのことです。

 もともとは狩りの用語です。狩猟犬を訓練するとき、赤い薫製ニシンを途中に仕掛けておきます。ニシンの匂いにつられて、本来の獲物を追うのと違うコースに逸脱してしまった犬は飼い主にこっぴどく叱られます。「レッドへリング」はあやまたず目標をめざして走る能力を育成するために、わざと仕掛けられるのです。

 アルフレッド・ヒッチコックは「レッドへリング」の名手でした。映画の前半で「いかにも犯人らしい人間」を前景に押し出し、観客自身に「謎解き」をさせるのです。観客は映画を観ながら「あ、こいつが犯人で、事件の真相はこうなのだ」と得心して膝を打ち、「監督を出し抜いた」とほくそ笑みます。そして、これから後の物語が自分の予想通りの展開になることを予測して、わくわくしながら映画を観つづけます。

 もちろん、映画はそのあと予想もしない大ドンデン返しに突入して、観客は仰天させられることになるのですが、ヒッチコックは別に観客を愚弄してそんなことをしているわけではありません。これは間違いなく観客へのサービスなのです。

 というのは、何も考えずにぼんやりプロットを追っている受動的な観客よりも、この「レッドへリングにひっかかった観客」の方がはるかに深く映画に没入し、はるかに多くの映画的悦楽を享受することができるのです。



 「ミスディレクトされた観客」の方が、騙されなかった観客よりも遠く、深くまで映画の中に参入することができる。行き先を「勘違い」した旅人の方が、行き先がわからないでぼんやりしている旅人より歩みが速く、踏み込みが深い。

 おわかりでしょうけれども、伝書における「わかりやすい言葉」は「レッドへリング」なのです。「わかりにくいこと」を教えるときにわざと「わかりやすい言葉」を使うのは、初学者を「ミスディレクト」するためなのです。「なるほど、修業の目的はこの方向なのだな。わかった!」と膝を打たせるために、わかりやすい言葉、つまり誤解されやすい言葉をちりばめてあるのです。

 久しく座右にあった伝書を取り上げて読んでみたときに、10年前と同じような読み方しかできないということは、どんな凡庸な武道家にもありえません。必ず「自分はなんと浅い読み方しかしていなかったのだろう」とひとり赤面することになります。必ず、なります。それが伝書の効用です。「わかった」と「ひとり赤面」を繰り返す。その反復を通じて修行者はしだいに武道修業の要諦について自得していくことになるのです。

 それは、”自分がかわったつもりでいることは、だいたい間違っている”ということでもあります。これが武道修行者が繰り返し、骨身にしみて会得しなければならない修業上の大原則です。





 本書収録の二編(『天狗芸術論』と『猫の妙術』)はいずれも「読んでわかったつもりになる」ための本です。それでよいのです。何年かして読み返して、以前の自分の「わかったつもり」に赤面すればいい。それを何度も繰り返せばよいのです。そのために書かれた本なのですから。

 『天狗芸術論』も『猫の妙術』も、中学修了程度の古文の知識があれば読めます。出てくる鍵語の大半も日常語です。「所作」も「気勢」も「無心」も「自然」も「精神」も、僕たちはその語義を熟知しているものとしてふだん用いています。ですから、初学者はかならず現代語の語義を当てはめてこれを読みます。自分の知っている言葉が「現代語の語義とはまったく違う意味」で使われている可能性を吟味したりはしません。

 ですから、逆説的なことですけれど、「意味がわかりそうな箇所」が伝書を読むときのピットフォール(落とし穴)なのです。「自分の日常感覚の延長でなんとなく類推できること」についての話はうっかりわかったつもりにならない方がいい。

 逆に、「自分の日常感覚ではまったく類推できないこと」については、気にしなくいい。そこにはピットフォールもないし、レッドへリングも仕掛けられていないからです。たとえば、「存在しないもの(大天狗や説教を垂れる老描など)」について書かれた箇所には誤解の余地がありません。



 私たちが誤解できるのは、「正しい理解」と「間違った理解」が併存する場合だけです。そうした箇所は全部「謎」です。すべてが「レッドへリング」であるというくらいの警戒心をもって読む方がいいです。

 でも、繰り返し言うように「レッドヘリング」に騙されて、自分なりの「読み筋」を作り上げるというのは、修業上の必然なのです。騙されて、誤読して、いいんです。そのために書かれて本なのですから。

 そういう迂回をスキップして、「レッドへリングなどに惑わされたくない、まっすぐに極意に達したい」と望むことこそ、佚斎樗山の言う「労を厭ひ、簡を好む」ことに他ならず、まさに初学者の初学者たる所以なのです。



 僕が書いているこの解説ももちろん、この二篇の解説としては間違っていることでしょう。

 ”間違っているに決まっている”

 僕程度の武道家に、こんなに簡単に「解説」されてしまうような文書が300年も読み継がれているはずがありませんからね。

 でも、それでいいんです。

 修業というのは「オープンエンド」なんですから。