「出家」とは?
それは文字通りの「家を出る」ということだけに限らない、と曹洞宗の藤田一照氏は言う。
「家」というのは、「自分がこれまでに慣れ親しんできた世間の常識や価値観」だと藤田氏は言うのである。
そうした広い意味での「家」から出ること、それが「出家」。
「ですから、形は立派な僧侶の格好をしていても、そういうものに囚われているのなら、それはやはり『在家』のままなのです。仏教ですらもその教えに必至でしがみついているのなら『出家すべき家』になってしまいます」と藤田氏。
つまり出家とは、ある一つの出来事を指す言葉ではなく、「出家し続ける」という連続的な運動なのである。
執着を手放すという不断の努力、この出家という運動こそが「修行」なのだそうだ。
そして、道元禅の立場でいえば、「修行そのものが悟り」ということになる。
これが「修証一如」ということ。「修」は修行であり、「証」は悟り、この2つは一つのものなのである。
すなわち「悟り」とは、修行の成果としていつか将来において獲得するものではなく、「出家」という修行をしているまさにその運動中に現成(げんじょう)しているものなのである。
「つまり『出家』が『修行』であり、それが取りも直さず『悟り』なのです」と藤田氏は言う。
手を動かして扇をあおがなければ、風は起きない。
それと同様、「出家」し続けなければ、「悟り」は現れない。
己の慣れ親しんだものを手放すことができるかどうか?
じつは、手放すことこそが「得る」ことだというのだが…。
しかし我々はえてして、お釈迦様が月を指差していても、その指に必死にしがみつこうとするものなのだ…!
出典:大法輪 2013年 03月号 [雑誌]
「信仰・修行の誤解、カン違い」
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