それは採澤さんが、子どもに頭部操法(整体)を行なっている時だった。
「その子がニョキニョキニョキって上に伸びてきたんです…!」
施術している子どもが、採澤さんに大きな気の動きを感じさせた。
「気がグゥっと通って、ゆるむ、みたいな…」
それまでは、ただ教わったことだけを施術しているだけだった採澤さんだったが、この子どものダイレクトな反応に、ある「気づき」を得る。
「あぁ、こういうことだったんだ、って腑に落ちる感覚がありました」と採澤さん。
当時27歳だった採澤和正さんは、サラリーマンをすっぱり辞めて、整体の仕事に飛び込んでいたのであった。
すべての収入を断ち切ってまで採澤さんが師事したのは、河野智聖師(心道・動体学)。
採澤さんにとって、整体の「型」を覚えるのにさほどの困難はなかった。しかし、「どこがどう歪んでいるのか、その異常がどこから来ているのか」、それがなかなか見えてこなかった。
「武術もそうだと思うんですけど、正拳突き自体がいくら強力でも、それが当たらなきゃ意味がないですよね。相手のスキが見えるようにならないと、使えません」と採澤さん。
その「スキ」を見せてくれたのが、先述した子どもだったのだ。河野師は出張に出ることも多く、その分、弟子の採澤さんは子どもの面倒を見ることが多かった。
河野師は、「技術をたくさん学んだからといって、それで独り立ちできるわけではない」と厳しく語る。
「習いに来る人たちは、どうしても技術を聞きたがる。でも、技術自体は意外に大きい問題ではない」と河野師。
「言ってみれば、『いい刀』だけ手に入れて、それを腰に携えていても、イザという時にそれを抜かざるを得ないのか、抜かずに済ませられるのか、それを判断できることこそが大事」
かつて、河野師のそのまたお師匠(野口晴哉)は、こう言っていたという。
「お茶を出すタイミング、お風呂のタイミング…。お茶は美味しく飲める温度なのか、お風呂は心地よい温度なのか…? その辺を『察する』ことが出来るようになったら、もう卒業だ」と。
そこにはやはり、「どんなに技術だけができてもダメだ」という教えが込められていた。
そうした教えを受け継いだ河野師、弟子の採澤さんを直接指導する時間はほとんどないという。
「直接指導の時間は、数えるほどしかなかったですね」と弟子の採澤さん。「先生からは技術伝授よりも、空気みたいな『それ以外の部分』から学んだことが大きかったです」。
「場」を整えておくこと、「先」を察するということ…、「流れ」のつくり方…。
「そういう目に見えない力を身につけていく、そういう事がじつは大切」と河野師。
「やっぱり技術がついたというよりも、自然にできてしまう身体になった、という感覚なんです」と弟子の採澤さん。
それを河野師は、潜在意識に「インプット」する、と表現する。
「メロディって、突然くるじゃないですか。武術や整体も同じで、潜在意識に入れておいたことは、無意識にもずっと考え続けているんです」と河野師。
「それが、ふとした拍子にパッと出てくる」
整体の時、自分をどんどん消して、自らを「無」にしていくと、相手がありありと見えてくる。そうして初めて、相手との「共鳴」が生まれるのだ、と河野師は語る。
子どもの頭がニョキニョキと伸びるように感じた時、きっと採澤さんはその子と共鳴していたのだろう。
「私が大事にしているのは、頭の知識以上に、身体に潜む『知恵』です」と河野師。
「知識」というのは、生まれてから学習する世界のことであるのに対して、河野師の言う「知恵」とは、「身体の中に何代も前から入っている全てのもの」だ。
「答えは全部、身体が持っている」と断言する河野師。
「頭に知識ばかりを詰め込むのではなく、逆に知識をどんどん削っていって、『知恵』を引き出していく。頭で考えるのではなく、『細胞の中から浮かび上がってくるもの』を大事にしていくのです」
河野師の言う知識には、表面的な技術という意味合いも込められているようだ。
施術中に子供が泣いたら、どうするのか?
そんな小さな対応にも、その人の培ってきたものが現れる、と河野師は言う。
刀を抜くか、抜かないかの判断力。
それさえ身についていれば、多少技術が劣っていたとて問題にはならない、と河野師。
師と弟子が共有する空気、そして時間。
「師がそこにいるだけで伝わってくる何か」
弟子入り2年目となる採澤さん、師と共鳴することにより、それを身体で感じ始めているようだ。
そして、その「何か」とは明らかに技術の先にあるもの、いや、技術の元にあるものだった…!
出典:秘伝
「整体に本当に必要なものを得る時間 内弟子・採澤和正」
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