2013年3月24日日曜日

日本伝統の建築様式「大仏様」。なぜ天竺様とも言うのだろう…。



平安時代の末期、治承4年の暮れ、奢れる平家は東大寺を焼いた(旧暦1180年12月28日)。

世に言う「南都焼討」。平重衡(たいらのしげひら)による兵火であった。

「大仏殿をはじめとする多くの堂塔を失った(Wikipedia)」



その再建を託されたのは、当時61歳の僧「重源(ちょうげん)」。

長きにわたり宋(中国)に留学していた重源は、その間、寺院の建立や修復に数多く立ち合っており、その経験は豊富であったという。



そして、できた新しい大仏殿。

その建築技法は、中国の福建省あたりで見られた様式だったというが、当時の人々はこのような建築物を見慣れていなかった。

「インド(天竺)あたりから伝わったのではないか?」

見慣れぬ再建大仏殿は、そんな風に考えられていた。それゆえ、この建築様式が「天竺様(てんじくよう)」と呼ばれるようになった。



そして、それはそのまま「大仏様(だいぶつよう)」とも言われるようになり、わが国の寺院建築の三本柱の一つに数えられるようにもなった。

※ちなみに、その3つとは「和様」「大仏様(天竺様)」「禅宗様(唐様)」である。

しかし、大仏様の建築物として現存するものは少ない(東大寺南大門や浄土寺浄土堂など)。それもそのはず、この建築様式は鎌倉時代初期の限られた時期だけに用いられたものだったのである。





大仏様(天竺様)の特徴はと言えば、「最小限の材料」で大建築を可能にすることであった。

というのも、鎌倉時代の初期、すでに森林資源が枯渇しており、奈良や京都の近くでは満足な材料を得ることが適わなくなっていた。重源が大仏殿を再建した時も、その用材は遠く山口県の山奥から伐り出してきたのである。

それゆえ、その長距離の輸送には自ずと限界があり、大仏殿も「必要最小限の資材」でまかなうしかなかったのであった。



なるほど、重源の大仏殿の「見慣れぬ建築様式」は、そんな必要から生まれたものであったか。

その後、東大寺がふたたび兵火にさらされるのは戦国時代。永禄10年10月10日、かの梟雄・松永久秀らの軍勢が大仏もろとも豪火に包むのであった…。






出典:大法輪
「雑学から学ぶ仏教 寺院の建築様式について」

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