兄の急逝。
それは、鹿島で剣術修行に明け暮れていた弟・源五郎にとって、まったく予期しない出来事であった。
いわゆる風邪の類いである虫気を患って床に伏せっていた兄・主水丞。病状が急変し、高熱に見舞われ急逝したのであった。わずか齢十九にしての夭折である。
上野国・上泉城からの早馬は、弟・源五郎のいる常陸国・鹿島へと、その急報を届けた。
茫然自失となりながらも、愛馬・新月を駆った源五郎。しかし時すでに遅く、兄の主水丞は青白い亡骸となっていた…。
悲嘆にくれる上泉一門。とりわけ母は気が違ったのではないかと思えるほどに錯乱していた。
兄の骸(むくろ)と母の狂乱。
それが、源五郎にはなぜか遠くに見える。すべての出来事が遥か遠くの世界で起こっているかのようだった。葬儀の最中でさえ、いったい自分がどこに居るのかも解らない…。
それは、見たこともない穴を覗くような気分だった。
突如として大口を開けた深い穴。それは奈落か。一瞬にしてその空虚に飲み込まれた源五郎。確固とした自己は失われてしまっていた。
魂のない抜け殻のような肉体として、源五郎は葬儀の場に居続けた。
「兄者はまだ死んでいないはず」
抜け殻だけの源五郎は、その死を実感できるはずもなかった。
しかしそれでも、死んだ兄が帰ってくるはずはない。
兄の死を上手く受け止められない源五郎。他の者に泪を見せることを頑なに拒み、心を揺らさぬように歯を食い縛り続けた。
兄を失った空虚な穴が悲しみに満たされるまで、源五郎はそれを感情として捉えられずにいたのである。
幼い頃の記憶
病弱ながらも元気だった頃の兄の笑顔
一緒に兵法修行を始めた庭
他愛もない兄弟喧嘩…
「あの時、兄者と組打ちをしておけばよかった…」
源五郎はつい一年半ほど前の晦日の夜を悔やんでいた。
自分が兄者を負かしてしまうのではないかという恐れから、兄との組打ちを断っていたのだった。自分はまだ修行の身で、それは禁じられていると嘘をついて…。
源五郎は、それを心底から悔いていた。
空虚の穴は、兄との思い出とともに次第に悲しみで満たされていく。
すると泪は自ずと湧き上がる。
それでも源五郎は一切の感情を表には出さなかった。まるで、己が泣くことによって兄の死を穢してしまうことを恐れるかのように…。
弱音を吐いた途端に、兄との大切な思い出が消えてしまいそうに思えた。
そのため、源五郎は葬儀の最中も、四十九日の法要が済んでも、他の者とろくに会話もせず、ただ一人きりで塞ぎ込んでいた。
うかとすると込み上げてくる悲嘆を必死で抑えつけながら、源五郎は黙々と木剣を振り続けていた。
そんな源五郎の行動は、周囲から奇異に見られていた。
兄の死に泣きわめくでもなく、嘆くわけでもなく、黙りこくったまま一人で過ごす弟。周囲はそんな源五郎の姿を訝しげに見ていた。
何か感情のない冷血な子供。
とりわけ母は源五郎を責め立てた。
「兄の死を悼んでいない!」
「兵法修行のことしか考えていない!」
そう罵られることもあった。
それらは、他人には窺い知ることのできない誤解であった。
それでも源五郎は言い訳するのが嫌だった。源五郎は悲しみとともに、そうした責めを黙って受け止め続けていた。
取り乱した母の恨み言には、一言も刃向かおうとはしなかった…。
源五郎の本当の心、それを理解していた人物がいたのは幸いだった。
「ワシはお前が兄を亡くした悲しみにどれほど耐えているかを知っている。無言のうちに何を噛み締めているかを解っておる。それを他の者に見せたくない心根も同じ男として解る」
源五郎の父は、無言のうちに全てを見抜いていた。
「源五郎、母を許してやれ。初めての子だった兄の死によって動顛しておる。だから、何も言わぬお前を兄の死を悼んでいないかもしれぬとしか、解せぬのじゃ…」
源五郎が初めて堪えきれずになったのは、この時だった。
一筋の涙。
それがついに源五郎の眼から流れた。
そして、それが漢が最後に見せた泪となった…。
出典:「真剣―新陰流を創った男、上泉伊勢守信綱 (新潮文庫) 海道龍一朗」
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