2013年3月14日木曜日

「病者の祈り」。ある落書から。



大きいことをしようとして、力を与えてほしいと神様に求めたのに、

慎み深く従順であるようにと「弱さ」を頂いた。



より偉大なことができるように、健康を求めたのに、

より良いことができるようにと「病弱」を頂いた。



幸せになろうとして、富を求めたのに、

賢くあるようにと「貧しさ」を頂いた。



世の人々に誉められようとして、権力を求めたのに、

神の前にひざまずくようにと「弱さ」を授かった。



人生を楽しもうと、あらゆるものを求めたのに、

あらゆることを喜べるようにと「命」を頂いた。



求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。

神様の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべて叶えられた。

私はあらゆる人の中で、最も豊かに祝福されたのだ。



………

ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に刻まれている「病者の祈り(作者不詳)」







釈尊の得た「悟り」というのは、「世のつね」に逆らうものであったという。

それを英語では「counter-intuitive」、「直観と相容れないもの」と表現する。



たとえば、太陽は地球の周りを回っているとしか見えない。しかしその実、回っているのは地球のほうだ。

また、量子力学はあらゆる物質が、粒としての側面(物体)と波として側面(動き)を併せ持つと教える。

仏教の教義もまた然り。「無我・縁起・空」、それらは我々の日常の経験と相容れるものではない。



表相ばかり見ていては、確実にこの世を誤解する。

そうした誤解から逃れられない人々のことを、釈尊は「貪りと怒りに焼かれる人々」、もしくは「欲望の激情にまみれた者」、「暗闇に覆われし者」と表現した。



ニューヨーク大学のリハビリテーション研究所にいたであろう「病者」は、きっと最初は物事の表相に囚われていたのだろう。

しかしながら彼(彼女?)は、その表相に惑われてばかりではなかった。



神から頂いたという「弱さ・病弱・貧しさ」には、もっと深淵な意味が込められていたことに気がついたのだ。直観とは相容れない、その意味に。

はた目から見れば、何とも不幸に見えたであろう彼(彼女)は、その実、たとえようもない幸福を感じていたのだから…!



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