真田昌幸はあることを思い立ち、主君・武田信玄から預かったままになっていた「碁盤と碁石」を引っ張り出してきた。
「思えば、御屋形さまからお預かりしたこの品が、形見分けとなってしまった…」
この時、主君・信玄はすでにこの世になかった。しかし、信玄の遺言により、その死は秘されたままである。
黒石を掴み、碁盤の上に置いていく昌幸。
形をなしたのは六連銭。それは最後に主君と打った六子局だった。
碁打ちとは不思議なもので、対局が終わった後でも、己と相手の打った手を最初から並べ直すことができる。なぜならば、その一手一手にすべて意味があるからだ。
脳裏にはっきりと焼き付いている棋譜を、静かに並べ始める昌幸。改めて並べ直してみると、信玄のこの上なく鋭い手筋が碁盤の天面に浮かび上がってくる。
「まるで、御屋形さまの一手一手が真剣の切っ先のように繰り出されている!」
信玄の打った白石には、どれも裂帛の気魄が籠っていた。相手に六子の優位を与えての一局は、かの信玄といえども、相当に難しかったようである。
そして、いよいよ勝負を分けた「天元への一手」。
昌幸が放ったその一手より先は、まるで新たな一局が始まったかのようであった。
「これは…」
信玄と対局した時の昌幸は、ただただ夢中で打っていただけで、主君の深い真意には気づけていなかった。
信玄は碁盤を地図に見立てて軍略を考えることも多く、囲碁の手合いを通して、軍略用兵の真髄を伝えてくることも多かったのである。
「石の死活は、兵の死活と同じである」
それが信玄の教えであった。
石を並べながら、昌幸は信玄の真意に気づき始めていた。
天元の一手の後、信玄の白石の一つ一つは生命が宿ったかのごとく躍動している。まるで謡曲を舞うように活き活きとしている。
「いま、やっと、わかった。御屋形さまはこの対局を心の底から愉しまれていたのだ…」
信玄の応手からは、軍略兵術の香りは消えていた。そこには何の邪気もない。昌幸を負かそうともしていなかった。
「かように面白き碁、かほどに気分の良い夜もないわ」
対局の後、主君はそう言って笑っていた。
気がつくと、碁石の代わりに大粒の泪が碁盤の上に落ちていた…。
この一局は、あの三方ヶ原の一戦の直後に打たれたもの。信玄がこの世を去る、ほんの少し前のことであった。
「御屋形さま…、不甲斐ない昌幸を許して下さいませ…。童の如く泪を流し尽くさねば、立ち上がれそうにありませぬ…」
碁盤の前で震え続ける昌幸。武将としての鎧を脱いだままに…。
「しかし、泪が枯れたのならば、立ち上がらなければならない…!」
人知れず心に鎧をまとい、主君の死を踏み越えて…。
出典:歴史街道 2012年 10月号 [雑誌]
「我六道を慴れず 真田昌幸 連戦記」
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