「国境の離島」の苦悩
日本と朝鮮半島の間に位置する「対馬(つしま)」。その島主「宗義智(そう・よしとし)」は、豊臣秀吉の朝鮮出兵には頭から反対だった。
というのも、対馬という貧しい島は、朝鮮との交易に頼らなければ生きていけない。島からの生産物だけでは、食料が絶対的に不足しているのだ(現代に至ってさえ、島の主食の生産量は島民の2ヶ月分しかない)。
「極端にいえば、ある時期の対馬は朝鮮を『宗主国』とせざるを得ないような状況に置かれていた(童門冬二)」
それでも、狂ったような秀吉の朝鮮出兵は敢行された。
交易の利を知る商人連中は皆反対だった。堺の元商人・小西行長も、博多の豪商・島井宗室も。秀吉の側近の石田三成でさえ反対であり、徳川家康もそうだった。
それでも、秀吉は朝鮮に大軍を送ったのだった…。
狂った秀吉の死後、その後の国政を担うこととなった徳川家康は、「全方位外交」という平和的な方針を持っていた。そして、その方針には当然、痛く傷ついてしまった日鮮の国交回復も含まれていた。
「朝鮮との和親の義を打診せよ」
その命を受けた対馬島主・宗義智(そう・よしとし)は、喜び勇んだ。「願ってもない…!」。
慶長四年(1599)、宗義智は朝鮮に和議の使者を送る。しかし、朝鮮に駐留していた明(中国)の将は、その使者を捕縛すると、北京へと護送してしまった。それは、次の使者も、また次の使者も同様だった。つまり、最初の三度の使者は皆、捕らえられてしまったのだ。
そして慶長六年(1601)、四度目の使者となった石田甚左衛門はようやく、朝鮮からの返書を持って戻ってくることができた。
その返書にはこうあった。「朝鮮からの拉致者をすべて送還せよ」。
そこで宗義智は、その返書の言に従うべく諸大名に呼びかけ、秀吉の朝鮮出兵で連行してきた朝鮮の人々を可能な限り送り返した。この慶長六年(1601)から九年(1604)にかけて、朝鮮に送還した男女は延べ1,702人に上ったという。
対馬という島は、日本の果てだったかもしれないが、朝鮮の釜山港からはわずか50kmも離れていない。その交易を再開することは、島主・宗義智の悲願であったのだ。そうした立場は、同じく国境の離島である琉球(沖縄)にも多分に似通っていたであろう。
慶長十年(1605)、徳川家康は京都・伏見城にて、朝鮮からの使者である孫文或(そん・ぶんいく)、そして僧の松雲(しょううん)と会見。
そしてここに、「日鮮両国は国交を回復する」との原則が定められることになった。
和議成立の褒美として、対馬島主・宗義智には肥前(佐賀)に二千石を加増、朝鮮使の僧・松雲には、日本の僧にとって最高の名誉である紫衣を与えられた。
喜んだのは朝鮮王(光海君)も同様。彼も家康同様、全方位外交には賛成だったのだ。
こうして日鮮の国交はスムーズに回復したかに見えた……が、その裏では大変なことが起こっていた。
「国書の改竄(かいざん)」
対馬島主・宗義智は、日本側の国書を勝手に書き換えてしまっていたのだ…。それは国境の離島の苦悩の末であり、切羽詰まった現場の苦渋の表れでもあった。
実は、朝鮮側からは「日本の謝罪文」を提出せよ、と言われていた。つまり、徳川家康に「詫び状」を書けというのだ。まさかこんなことを家康に言えるわけがない。
また、朝鮮側の国書の宛名が「日本国王」となっていたのも問題だった。この宛て書きは「もともと宗主国が従属国に出す文書」で使用されるもの。つまり、日本は朝鮮に従属国扱いされていたのである。
家康の肩書きも問題だ。もし「日本国王」と記せば、朝鮮側に日本が従属国であることを認めることになる。そして、それ以上に天皇の存在を無視するという無礼も犯すことになる。
これら3つの問題を回避するため、対馬島主・宗義智は日本の国書を改竄したのであった。
家康の肩書きは「日本国源家康」と曖昧なものとし、この和議は日本から詫び状を送ったという形ではなく、朝鮮から申し出されたものとした。
「国境の離島」の苦悩。
その責めを、現場の島主ばかりに負わせられようか…。
もとはと言えば、耄碌老人の暴挙がその因であったのだ…。
(了)
出典:致知2013年4月号
「林羅山 国書改竄事件 童門冬二」
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