2013年9月2日月曜日

広瀬淡窓の◯、「万善簿」



江戸時代の儒学者「広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)」

彼は「万善簿(まんぜんぼ)」という記録をつけ続けたという。






淡窓が大分県日田の地に開いた私塾「咸宜園(かんぎえん)」は、全国各地から門下生が集い、明治30年の閉塾までに約5,000人が学んだという、日本最大級の私塾です。各藩が設立した効率の学校とは異なる一民間人が個人的に興した私塾が、なぜこれほどの門下生を集めたのでしょうか?

その鍵は、人としての生き方を後ろ姿で示し、己の心と厳しく向き合い続ける淡窓の姿にありました。咸宜園の入門者が増えれば増えるほど、淡窓は自らを深く省み、自分自身にさらなる修養を課したといいます。

それを象徴するのが「万善簿(まんぜんぼ)」と名付けられた善行実践の記録です。一日を振り返って、良い事をしていればその分だけの「白丸◯」を、また悪い事をしていれば、その分だけの「黒丸●」を帳面に付けるというものです。そして月末には、白丸の数から黒丸の数を差し引いたものを純粋な善行の数として集計し、その累計が「一万」に達することを目指しました。

白丸の例として見られる実践項目は、「人に勧めて善を為す」「財を捨てて人を利す」「善書を著す」「怒りを忍ぶ」「放生(捕らえた生き物を放してやる)」などです。また、黒丸の例としては「殺生」「食べ過ぎ」「財を惜しむ」などが挙げられます。

淡窓は「万善簿」を54歳から付け始め、12年7ヶ月をかけて、67歳でついに「一万善」を達成します。しかし淡窓はそれで良しとせず、次の万善を目指して記録を続け、生涯を終えるまで修養を積み続けたといいます。

淡窓は50歳を過ぎた頃の自分の性格を省みて、「自分には三つの病がある」と述べています。「怠けること」「臆病なこと」「利己的でケチなこと」。この三つとも根は同じであると考えた淡窓は、まず「怠けること」から改めようと思い定め、そこから「万善」をやり抜く決意を固めたのでした。

その感化を受けた門人には、「大村益次郎(幕末期の医師・西洋学者)」「高野長英(江戸後期の蘭学者)」などの英才が現れています。



”善積まざれば、もって名を成すに足らず

悪積まざれば、もって身を滅ぼすに足らず”

(中国古典「易経」)



ソース:心を育てる月刊誌「ニューモラル」No.529
「心」を磨く生活習慣

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