2013年11月2日土曜日

「矛盾」と「統一」 [西田幾多郎]



話:西田幾多郎




まず、すべての実在の背後には”統一的ある者”の働きおこることを認めねばならぬ。

ある学者は、真に単純であって独立せる要素、たとえば元子論者の元子のごとき者が根本的実在であると考えている。しかし、このごとき要素は”説明のために設けられた抽象的概念”であって、事実上に存在することはできぬ。

ためしに想え、今ここに何か一つの元子があるならば、そは必ず”何らかの性質または作用”をもったものでなければならぬ(まったく性質または作用なき者は、無と同一である)。しかるに一つの物が働くというのは、必ず他の物に対して働くのである。しかしてこれには必ず、この二つの物を結合して互いに相働くを得しめる第三者がなくてはならぬ。たとえば甲の物体の運動が乙に伝わるというには、この両物体のあいだに力というものがなければならぬ。また性質ということも、一の性質が成立するには必ず他に対して成立するのである。たとえば色が赤のみであったならば、赤という色は現れようがない。赤が現れるには赤ならざる色がなければならぬ。

こうして一の性質が他の性質と比較し区別せらるるには、両性質はその根底において同一でなければならぬ。まったく類を異にしその間になんらの共通なる点をもたぬ者は、比較し区別することができぬ。かくのごとく、すべて物は対立によって成立するというならば、その根底には必ず”統一的ある者”が潜んでいるのである。


右にいったように、その根底において統一というものが必要であると共に、相互の反対むしろ矛盾ということが必要である。ヘラクレイトスが「争(あらそい)は万物の父」といったように、実在は矛盾によって成立するのである。赤き物は赤からざる色に対し、働く者はこれをうける者に対して成立するのである。

この矛盾が消滅すると共に、実在も消え失せてしまう。元来この矛盾と統一とは、同一の事柄を両方面より見たものにすぎない。統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある。

たとえば、”白と黒”のようにすべての点において共通であって、ただ一点において異なっている者が互いに最も反対となる。これに反し、”徳と三角”というように明了の反対なき者はまた明了なる統一もない。最も有力なる実在は、種々の矛盾を最もよく調和統一した者である。





抜粋:西田幾多郎『善の研究 』第五章 真実在の根本的方式



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