話:坂本大三郎
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ゾンビのようにふらふらになりながら、月山(がっさん)山頂のお社に着くと、僕たち以外にも、白装束を着て参拝する年配の方たちが目に付きます。お社では、月山の神や仏が祀られているだけではなく、死者の魂の供養もおこなわれていました。老人たちは自分たちの祖先の霊に出会うため、ここまでやって来ていたのです。
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月山に限らず、古代から山は「生の世界」と「死の世界」の境界とも考えられているそうです。
人は死ぬと霊魂となって、しばらくは里に近い”端にある山”という意味の「ハヤマ」と呼ばれる低山(出羽三山では羽黒山)にとどまり子孫たちを見守り、三十三年ともいわれる長い時間をへて浄化され、奥深い山「ミヤマ(出羽三山では月山)」に登り、山の神になると云います。
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大聖坊(羽黒山)に着いて、僕らは夜間抖擻(とそう)に出かけました。手向(とうげ)から少し離れた森の中を歩いていました。昨晩と同じように「死の世界」を感じます。
しかし、昼間、月山で感じた”死”とは種類が違うようです。月山はとても透き通ってクリアな世界でした。月山は、においもシンプルでしたが、羽黒の森の中は、どこか獣じみた、粘り気のあるにおいです。歩くたびに少し重みがあるような空気が身体にまとわり付いてくるような感じがします。それは不愉快であったり、恐ろしかったりはしません。ずっと身近にあったはずのもののようです。眠りにつくときに、目を瞑るとあらわれるような暗闇でした。
月山や羽黒の”闇の違い”を感じて、死者の霊が低山にとどまり、やがて高い山に登って神になると考えた古の人々の感覚が、現代人の自分の中にも同じように流れているように思えました。
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羽黒山伏の秋の峰入り修業は「籠り行」とも言われ、東北を中心に東日本に広がる「ハヤマ籠り」という儀礼が強い影響をあたえているとされています。ハヤマとは、集落の近くにある低い山で、死霊の集う山です。死者の霊魂はハヤマを経てミヤマへと登って行きます。
ハヤマ信仰をもつ共同体の若者は、死者の埋葬地で死の世界に触れることで、新たに成人男性として生まれ変わることができると考えられました。生をも否定しかねない死の呪力が社会に躍動をあたえる原動力と考えられ、死の世界である山は、新たしい生命がやってくる生の世界でもあったのです。
ハヤマ籠りのような、男性が集団になって山などの聖地に籠る成人儀礼は、縄文時代からおこなわれていたと推測されます。それを裏付けるように、東北各地の低山では、死者の埋葬地と考えられる縄文時代の遺跡が多く見つかっています(羽黒山でも縄文遺跡が発見されています)。
ちなみに、列島各地にもハヤマは残っていて、現在は「羽山」や「葉山」と呼ばれています。
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引用:坂本大三郎『山伏と僕 』
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