2013年11月3日日曜日

主観は「無意識」 [西田幾多郎]



話:西田幾多郎



次に”無意識と意識の区別”について一言せん。

主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となる者が意識内容として現れるのである。思惟について見ても、また意志についてみても、真の統一作用そのものはいつも無意識である。

ただこれを反省して見た時、この統一作用は一の観念として意識上に現われる。しかしこの時はすでに統一作用ではなくして、統一の対象となっているのである。

前にいったように、統一作用はいつでも主観であるから、従っていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも”無意識が活動である”といっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに反し、ある意識を客観的対象として意識した時には、その意識はすでに活動を失ったものである。

たとえば、ある芸術の修練についても、一々の動作を意識している間はいまだ真に生きた芸術ではない。無意識の状態に至って、はじめて生きた芸術となるのである。





抜粋:西田幾多郎『善の研究

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