話:西田幾多郎
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”統一する者”と”統一せらるる者”とを別々に考えるのは抽象的思惟によるので、具体的実在にてはこの二つの者を離すことはできない。
一本の樹とは枝葉根幹の種々異なりたる作用をなす部分を統一した上に存在するが、樹は単に枝葉根幹の集合ではない。樹全体の統一力がなかったならば、枝葉根幹も無意義である。樹はその部分の対立と統一との上に存するのである。統一力と統一せらるる者と分離した時には実在とならない。たとえば人が石を積みかさねたように、石と人とは別物である。かかるときに石の積みかさねは人工的であって、独立の一存在とはならない。
そこで実在の根本的方式は”一なると共に多”、”多なると共に一”、”平等のなかに差別を具し、差別のなかに平等を具する”のである。こうしてこの二方面は離すことのできないものであるから、つまり一つの者の自家発展ということができる。独立自全の真実在はいつでもこの方式を具えている。しからざる者は皆、我々の抽象的概念である。
右のごとく、”真に一にして多なる実在”は自動不息でなければならなぬ。
静止の状態とは他と対立せぬ独存の状態であって、すなわち多を排斥したる一の状態なのである。しかし、この状態にて実在は成立することはできない。もし統一によってある一つの状態が成立したとすれば、ただちにここに他の反対の状態が成立しておらねばならぬ。一の統一が立てばただちにこれを破る不統一が存在する。真実在はかくのごとき無限の対立をもって成立するのである。
活きた者は皆、無限の対立を含んでいる。すなわち無限の変化を生ずる能力をもったものである。精神を活物というのは、終始無限の対立を存し停止するところがないゆえである。もしこれが一状態に固定して、さらに他の対立に移るあたわざるときは死物である。
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抜粋:西田幾多郎『善の研究 』 第五章 真実在の根本的方式
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