話:西田幾多郎
矛盾衝突のあるところに精神あり、精神のあるところに矛盾衝突がある。
たとえば、われわれの意志活動についてみるも、動機の衝突のないときには無意識である。すなわち、いわゆる客観的自然に近いのである。しかし、動機の衝突が著しくなるにしたがって意志が明瞭に意識せられ、自己の心なるものを自覚することができる。
かつて言ったように、実在は一方において無限の衝突であるとともに、一方においてまた無限の統一である。衝突は統一に欠くべからざる反面である。衝突によって我々はさらにいっそう大なる統一に進むのである。実在の統一作用なるわれわれの精神が自分を意識するのは、その統一が活動している時ではなく、この衝突の際においてである。
我々がある一芸に熟したとき、すなわち実在の統一を得たときはかえって無意識である。すなわち、この自家の統一を知らない。しかし、さらに深く進まんとする時、すでに得たところのものと衝突を起こし、ここにまた意識的となる。意識はいつも、かくのごとき衝突より生ずるのである。
また、精神あるところには必ず衝突のあることは、精神には理想をともなうことを考えてみるがよい。理想は現実との矛盾衝突を意味している。かく我々の精神は衝突によりて現ずるがゆえに、精神には必ず苦悶がある。厭世論者が”世界は苦の世界である”と言うのは、一面の真理をふくんでいる。
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引用:西田幾多郎『善の研究 』
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