石火之機
と申すことの候。これも前の心持ちにて候。
石をハタと打つや否や、光が出で、打つとそのまま出る火なれば、間も透間もなきことにて候。これも心の止まるべき間のなきことを申し候。
早きこととばかり心得候へば、悪しく候。心を物に止めまじといふが詮にて候。早きにも心の止らぬところを詮に申し候。心が止まれば、我心を人にとられ申し候。早くせんと思ひ設けて早くせば、思ひ設ける心にまた心を奪われ候。
西行の歌集に「世をいとふ人とし聞けばかりの宿に 心止むなと思ふばかりそ」と申す歌は、江口の遊女のよみし歌なり。「心止むなと思ふばかりぞ」といふ下句の引合せは、兵法の至極に当たり申すべく候。心をとどめぬが肝要にて候。
禅宗にて、「如何か是れ仏」と問ひ候はば、拳をさしあぐべし。「如何か仏法の極意」と問はば、その声いまだ絶たざるに、一枝の梅花なりとも、庭前の柏樹子なりとも答ふべし。
その答話の善悪を選ぶにてはなし。止まらぬ心を尊ぶなり。止まらぬ心は、色にも香にも移らぬなり。この移らぬ心の体を神とも祝ひ、仏とも尊び、禅心とも、極意とも申し候へども、思案して後に云ひ出し候へば、金言妙句にても住地煩悩にて候。
石火の機と申すも、ぴかりとする電光の早きを申し候。
話:鈴木大拙
たとえば、人から話しかけられたときには、ただちに「諾」と答える。ーーそれが不動智である。話し掛けられたとき、いかなる用があるのかと不審がったりして熟考するならば、それは心の「止る」のでありーーすなわち、混乱と無智(沢庵のいう住地煩悩)とであり、いまだ尋常の智の人であることを示すのである。
問に対して即座に応ずるところのものは、「仏陀の智慧」であり、それは神々と賢愚の別なく人間を含めたいっさいのものに、あまねく分ち与えられているものである。この「智慧」に命ぜられて行動するときは、人は仏か神である。
神道・歌道・心・儒教の教えはさまざまであるが、みな究竟において「唯一心(ワン・マインド)」の実現を目指している(唯一心・仏陀の智慧・不動智は同一物の名称である)。この「心」を説明するために、言葉は不十分である。説明すれば心は分割されて、そこに「我」と「非我」が生じ、(この二元性のゆえに)われわれは善悪のいっさいの行為をとげることとなり、「業(カルマ)」のもてあそびものとなるよりほかない。
「業(カルマ)」もじつは「心」から発する。ゆえに最も肝要なことは「心そのもの」を洞徹することである。この洞徹力をもつ人は少なく、われわれの多くはその働きに関して無知である。
…
引用:鈴木大拙「禅と日本文化 (岩波新書) 」
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