話:永六輔
京都の銀閣寺に行ったときの話です。
庭というものは座敷に座って見るように設計されていて、立って見るもんじゃないんです。知ってましたか? 座ると、軒先の高さに応じて借景をどう計算しているか、というのが見えるわけで、座ってはじめて、軒先と鴨居・敷居に区切られて浮かび上がる構図の見事さがわかる。
僕はその日、ちゃんと庭に向かって座っていました。そしたら庭師が向こうから、
「永さん、さすがだな、座ってくれてますね」
「ええ、お庭は座って拝見しないと」
そうしたら、その庭師さん、
「最近、座って見てくれる方がいないんです。あなた、そこ、お座りになっているところに、足利将軍さんが座ってたんです」
銀閣寺だから、そうでしょうね。でも、つぎの言葉にはびっくりしました。
「足利将軍さんがご覧になったままの庭を、永さん、いまあなたがご覧になっているわけです」
そりゃ、いくら何でもウソだと思いますよね。五百年以上も前と同じわけはない。
「いいえ、そうなんです。ここは、むかし将軍が見たままになっています。悔しいけど、借景はそうじゃない。借景はそうじゃないけど、でもこの庭はそのときのまんま」
「そのまんまって言ったって、木が生えてきて何百年もたっているんだから、同じはずはないでしょう?」
「永さんはお若い。盆栽のことがわかってない。盆栽という芸はここから生まれるんですよ。盆栽は育てたら盆栽じゃない。育てない、何百年たとうが育てないようにして生かしておく。だから盆栽なんだ」
そう言われれば、そうですね。樹齢三百年なんていう盆栽があるじゃないですか。それにしてもびっくりしました。室町時代の庭はいまでも”室町時代の庭のまんま”だというんですから。「足利将軍さんがご覧になったとおりの庭をいまあなたは見ているんですよ」と言われたとき、職人の仕事って怖い、と思いました。
…
引用:永六輔『職人 (岩波新書) 』
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