話:鈴木大拙
つぎに示すのは、禅と剣道との関係について柳生但馬守に送った沢庵和尚の書翰である。それは『不動智神妙録』と題されている。沢庵は、このすぐれた剣士にあたえた書翰のなかに、無心(彼の心が生命それ自体の原則と完全に共鳴した心理状態。仏教の語義からいうと、それは死生の二元論を超越すること)の意義をきわめて強調している。
無心はある点において「無意識」の概念にあたると見てよい。心理的にいえば、この心の状態は絶対受動のもので、心が惜しみなく他の「力」に身をゆだねるのである。この点で、人は意識に関するかぎりいわば自動人形になるのである。
しかし、沢庵が説くように、それは木石などの非有機的な物質の無感覚性および頼りない受動性と混同してはならぬ。「無意識に意識すること」——この目もくらむばかりの逆説以外に、この心的状態を叙述する道はない。
沢庵『不動智神妙録』
仏教の示すところによると、精神発展の段階が五十二あり、その一つを「止る」といい、それに至ると人は一点に定着して、自由に動くことができなくなる。剣道にもこれにあたるものがある。この段階を沢庵は無明住地煩悩といっている。
無明住地煩悩
無明とは、明になしと申す文字にて候。迷を申し候。その五十二位の内に、物ごとに心の止る所を、住地と申し候。住は止ると申す義理にて候。止ると申すは、何事につけても其事に心を止るを申し候。
貴殿の兵法にて申し候はば、向ふより切る太刀を一目見て、そのままにてそこにて合はんと思へば、向ふの太刀にそのままに心が止まりて、手前の働きが抜け候て、向ふの人に切られ候。これを止ると申し候。
打太刀を見ることは見れども、そこに心を止めず、向ふの打つ太刀に拍子を合わせ、打たうとも思はず、思案分別を残さず、振上る太刀を見るや否や、心を卒度(そっと)止めず、そのまま付け入て、向ふの太刀にとりつかば、我を切らんとする刀を、我が方へもぎとりて、かえって向ふを切る刀となるべく候。
禅宗にはこれを還把槍頭倒刺人来ると申し候。槍はほこにて候。人の持ちたる刀を我が方へともぎとりて、還って相手を切ると申す心に候。貴殿の無刀と仰せられ候事にて候。
向ふから打つとも、吾から討つとも、打つ人にも打つ太刀にも、程にも拍子にも、卒度も心を止めれば、手前の働は皆抜け候て、人に切られべく申し候。敵に我心を置けば、敵に心をとられ候間、我身にも心を置くべからず。我身に心を引しめて置くも、初心の間、習入り候時の事なるべし。太刀に心をとられ候。拍子合に心を置けば、拍子合に心をとられ候。我太刀に心を置けば、我太刀に心をとられ候。
これ皆心のとまりて、手前抜殻になり申し候。貴殿これ御覚あるべき候。仏法と引当てに申すにて候。仏法には、この止る心を迷と申し候。故に無明住地煩悩と申すことにて候。
…
引用:鈴木大拙『禅と日本文化 (岩波新書) 』
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