2012年12月16日日曜日
なぜか似ている「非なるもの」。イカと人と
「イカと人間が似ている? 」
いったい、どこが…。
遺伝子レベルでみた場合、イカは同じ頭足類のタコよりも、人間などのホ乳類との共通点が多く見られるのだという。
「とりわけ血管構造や眼のつくりに共通点が多い。一万ほどある眼に関する遺伝子の多くが同じ塩基配列になっている(お茶の水女子大学・小倉淳特任助教)」
「イカの脳」は小型ホ乳類のそれに匹敵する数億もの神経細胞からなり、「海の霊長類」と呼ばれるほどに知能が高い(タコの名誉のために付け加えれば、タコの知能も抜群に高いとされている)。
なぜ、イカはホ乳類と似通ったのか?
両者は5億年もの遠い昔に、進化の樹から枝分かれしたのではなかったのか。
じつは、種の系統が違っていても姿形が似たりすることがよくある。逆に姿形が似てるからといって遺伝子も類似しているとは限らない。
意外なことに、コウモリとイルカは遺伝子的には親戚である。
神妙なる進化の過程においては、「住む環境」や「エサ」などによって、異なる種を似通わせたりすることがある。
決して「水平伝播」しないはずの遺伝子が、異なる種で見つかったりする一例がコウモリとイルカである。
コウモリとイルカが親戚というのは、両者ともに超音波を出してその反響で周囲の状況を把握する能力(エコーロケーション能力)を持つからだ。この能力に関するプレスチン遺伝子が種のカベを越えるはずがない。
洞窟などの視界のきかない暗闇に暮らすコウモリと、海が濁って視界を奪われることもあるイルカは、期せずして同じ能力を高めることとなったのである。
このように、種の系統は異なっても同じような進化をする現象を「収斂(しゅうれん)進化」と呼ぶ。
イカとホ乳類の神経系統が似通っているのも、そうした進化の末だと考えられている。
種は大きく異なれども、イカとホ乳類は「共通する何か」を必要としたということだ。
また、アフリカのマダガスカル島にはハリテンレックという「針ネズミそっくり」の動物がいるが、じつは彼らは「象の仲間」なのだという。
なぜ象が針ネズミになったのか? 残念ながら毛を針化させる遺伝子はまだ見つかっていない。
かくも奥の深い生物の進化。
新しい事実が見つかるたびにその謎も深まっていく。そのたびに、従来の常識は再考を迫られる。
食卓にイカが上るとき、その深淵なる進化の歴史に思いを馳せて頂きたい。
なむあみだぶつ…。
ソース:日経サイエンス2012年3月号
「分子レベルで進む収斂進化の謎解き」
「似て非なるもの」、ホウレン草と小松菜
漸減するホウレン草に対して、漸増する小松菜。
まだホウレン草にはかなわないものの、「小松菜の勢いは『主客転倒』の予感を感じさせる」。
「低温好き」のホウレン草に対して、小松菜は「猛暑に強い」。
それゆえ、猛暑の夏はホウレン草の品質を落とす一方で、小松菜の地位を高める。今年などは特にそうなった。
生産者にとって、小松菜は「楽」だ。
「ホウレン草よりも作り易く、反収(収量)も上がる」
ホウレン草は夏場に収量を落とすが、小松菜は年間を通じて安定した収量を保つことができる。
しかし、その安定供給ゆえに、小松菜の単価は一貫してホウレン草よりも安くなってしまう。ホウレン草のキロ400円超に対して、小松菜は300円を切る。
かえって、この小松菜の「割安さ」はそのまま消費者のメリットとなる。
アクの強いホウレン草は煮こぼしなどの手間がかかるが、小松菜は洗ってそのまま調理できる。この「簡便性」は忙しい主婦にとって大きな魅力ともなる。
似て非なるもの、それがホウレン草と小松菜。
これからの冬に向けては、一気に「ホウレン草の逆襲」が始まる。気温が下がるほどホウレン草の葉っぱは厚みを増し、その旨みをグッと増すからだ。厳冬期の「寒じめホウレン草」は鍋物に最高である。
一方、小松菜の食味は年中メリハリの乏しいものである。それでも、葉物野菜は「体に良い」という感覚先行で食される機会も多いため、その食味は二の次とされる傾向もある。
むしろ、小松菜の割安感と料理のし易さは、若い世代の心を大いにつかむ。
「スーパーでも家庭でも『常備の葉物野菜は小松菜』という地位を確立しつつあるようだ」
ホウレン草と小松菜の「主客転倒」、それは世代の交代であり、時代の流れなのかもしれない…。
出典:農業経営者2012年11月号
「猛暑後の秋期葉物野菜」
2012年12月14日金曜日
現代に続く「元服」の儀式
「元服」というのは武士の儀式であるが、それを幕末以来、160年以上脈々と受け継いでいる地区があるという。
岩手県大船渡市の佐野地区。地元の中学生は「15歳」になると伝統の元服式が執り行われることとなる。嘉永四年(1851)から一回も休むことなく行われており、今年で162回目を数えたとのこと。
儀式自体は非常にシンプル。君が代を斉唱した後、新成人が守るべき「嘉永四年の定(さだめ)」が読み上げられる。最後は契の杯(ブドウ液)を飲んで、正式に元服となる。
以下は、幕末以来の教えである「嘉永四年の定」の抜粋である。
自慢は知恵のゆきあたり
奢るものの末は、世上の厄介
堪忍のならぬは、心の掃除たらぬため
家内喧騒は貧乏の種まき
…
われ良きに、人の悪しきはなきものぞ
人の悪しきは、みな我が悪しき
出典:致知2013年1月号
「震災で知った元服式に込めた先人の思い」
2012年12月13日木曜日
モンスターなどいなかった…。
「モンスター」などいなかった。
その森の奥にはモンスターが住んでいると長年信じられていたのに…。
「森に入ってはならない。モンスターに襲われるから」
村人たちは、この村の掟に忠実に従い続けてきた。
しかし、モンスターなどいなかったのだ。
この手のモンスターは、社会の至る所、そして自分の心の中に幾多と巣食っている。
「実態のない敵への恐怖」
それがモンスターの正体である。
自由と民主主義を脅かすのは「テロリスト」というモンスターなのであろうか?
自由化により日本の農業を滅ぼすのもモンスターの仕業なのだろうか?
政治、戦争、教育、メディア…。
モンスターはどこにでも潜んでいる。
そして、そのモンスターから逃れようとすればするほど、「モンスターは巨大化してしまう」。
モンスターに勝つ方法は「ただ一つ」。
「しっかりと目を見開くこと」である。
出典:農業経営者 2012年11月号(200号) Book Review
2012年12月11日火曜日
氷河時代から生き続けている樹木
世界最古の樹木。
それはなんと、最後の氷河期から生き続けている。
スウェーデンで生きているというその樹木は9,550歳。地上部こそは当時のものではないといえ、地下の根っこの生命は脈々と受け継がれている。
樹種は「ドイツトウヒ」というもので、ヨーロッパでは伝統的な「クリスマスの木」として有名である。
この驚くべき長寿の理由は、その再生能力にあるという。
「幹の部分の寿命は600年だが、幹が死んでしまうとすぐに、同じ根元から『新しい幹』が生えてくる」
樹木の寿命は人間のモノサシでは到底測れない。
「1,000年以上生き続ける樹木も珍しくはない」
アメリカのカリフォルニア州にある「ヒッコリーマツ」は、地上部の年齢が約5,000年。世界最高齢とされている。根っこに関しては樹齢5,000〜6,000年という樹木がスウェーデンにはゴロゴロある。
そして意外なことに、樹木というのは「樹齢を重ねるにつれて、成長が加速する」。
年をとるほど「樹冠(樹木上部)」が拡大してたくさんの光を受けられるようになるためだ。「光合成で生成される糖の量が増加し、成長が促される」。
樹木はまさに「老いて益々盛ん」なのである。
セコイア国立公園(米カリフォルニア州)にある樹齢3,200年のジャイアントセコイヤ、通称「プレジデント」は、高さが57mで世界で2番目に大きな樹木と確認されている。
まだ大きくなっているという「プレジデント」。「一生成長が続く」。
どうやら、樹木の世界に「高齢化」というものは存在しないようだ。
人生のピークはつねに前方にあり、いつも「今が最高」。
その成長やまさに「天井知らず」。
2012年12月8日土曜日
日本の「美味いコメ」。蝕まれるその土壌
「こんな美味いコメを食っていると罰が当たるな」
これは新潟でコシヒカリをつくっていたある古老の言葉。40年も前の話である。
「美味いコメ」、それは古老にとって何よりの自慢でもあった。
当時は「メシは喉で食え」と言われていた時代。わずかのオカズで何杯ものメシを「掻き込む」のであり、「味がどうのこうの」はまったく二の次だった。
それから40年、美味いコメは巷にあふれるようになっている。
それは「研究者たちやメーカーによる育種や栽培技術、コンバインや乾燥機など開発努力の成果であり、農家がコメを良食味に仕上げるようとした尽力の結果」である。
だが、一方では「日本のコメの品質が下がっている」との嘆きも聞かれる。
多くの卸業者たちは、こうボヤく。「農協のカントリー(コメ集積場)に集まるコメが、トラック一台ごとに『品質がバラバラ』で、精米や炊飯米として品質を維持することに苦労している」と。
農協に集められるコメは、その多くが「小規模で趣味的な高齢農家」の手によるもの。彼らはなかなか指導基準を守ってくれない。良食味米の栽培基準は農協や指導機関から繰り返し伝えられているはずなのに…。
手前勝手な作り方でつくられたコメは、全体の食味を落としてしまうばかりか、「過剰米」の原因にもなる。採算度外視で大量につくられる趣味的なコメが、コメ全体の値段を下げてしまう元ともなってしまうのだ。
「食味ばかりか、値も落とす」。そんな悩みが日本のコメにはあったのだ。
「日本のコメは、貿易自由化によって滅ぼされるのではなく、農家自身の手によって自滅させられようとしているのではなかろうか?」
専門誌「農業経営者」の編集長である昆吉則氏は、そんな懸念を口にする。
「40年前と比べれば、あらゆる産業で工場での労働品質は向上しているのに、コメ産業だけは、確実に労働の質が下がっている」
日本のコメとは?
美味いコメとは?
それらがどのような土壌の上に成り立っていたのか、いま一度、静かに思い巡らす必要があるのかもしれない。
いたずらにTPPをスケープゴートとしてしまわずに…。
出典:農業経営者 2012年11月号(200号)
「コメ農業を滅ぼすのは農業界と農業政策だ」
2012年11月27日火曜日
オバちゃんとコンビニ。
歴代天皇のお仕事とは?
皇室が果たされている役割とは?
千年を超える歴代天皇のお仕事とは?
「皇室は『祈り』でありたい」
皇后陛下はそうおっしゃった。
現在、皇室の執り行う祭儀は「恒例・臨時を併せると実に60回にも及ぶ」という。
その数ある宮中祭儀のうちでも最も古く、最も重要なのが「新嘗祭(にいなめさい)」。その年に新しく穫れた穀物を神々に供えて、天皇自らも召し上がる祭祀である。
「祭典は11月23日の午後6時から8時の間の『夕(よい)の儀』、次いで午後11時から翌午前1時ごろにかけて行われる『暁(あかつき)の儀』からなる」
明治天皇の御製に「我が国は神の末なり、神まつる昔の手振り、忘るなよゆめ」という一首があるが、祭祀の作法(神まつる昔の手振り)というのは、「いささかも忽(ゆるが)せにせず受け継がれている」ということだ。
明治時代のある新嘗祭(にいなめさい)の当夜、シンシンと冷え込み、篝火(かがりび)が焚かれてもなお、参列者たちは冷気に震えが止まらなかった。昔ながらの作法を大切にする祭祀の場には暖房設備などはもちろんない。
ところが、祭儀がお済みになった明治天皇は「汗をかかれていた」という。
「陛下には全身全神経を神のご奉仕に御尽くしになった御しるしと拝するより仕方がなかった」と当時の掌典長・宮地厳夫は語る。陛下は休息もなく激しく神事に務められたのだとのこと。
時は下り、昭和天皇の時代。年間60回ほどの宮中祭祀のうち、天皇の御親拝は33回で、ほかは代拝が慣例とされていた。しかるに、昭和天皇は御自身の意志で自ら行う親拝を57回にまで増やされたのだという。
昭和5年、冬季に入った旬祭は、例年になく「30cm以上の積雪」に見舞われた。それでも昭和天皇は定刻通りに御拝をなさったのだそうな。降り積もる雪を踏み分けて…。
「降る雪に心清めて、安らけき世をこそ祈れ、神の広間へ」
時は世界恐慌、満州事変勃発の前夜。激動の世に突入しつつあった…。
そして、日本が国際連盟を脱退する前年の昭和7年。
その年の新嘗祭(にいなめさい)の当日、昭和天皇は風邪を召されており、「あまりの高熱」に侍医は新嘗祭の出御とりやめを言上していた。
それでも陛下の御意志は固かった。「お前たちには分からぬ。この御祭はどうしても自分がやらなければならぬのだ…!」。そして、陛下は高熱のままに祭儀を完璧に務められたそうである。
「天地(あめつち)の神にぞ祈る、あさなぎの海のごとくに波たたぬ世を」
皇室の役割とは?
天皇陛下のお仕事とは?
「神がきに朝参りして祈るかな、国と民との安からむ世を」
これは明治天皇の御製の一首である。
出典:致知2012年12月号
「昔の手ぶり忘るなよゆめ」
大和心とは? 美しき国土にあって…
水戸黄門さまの生前の墓が言うには…
「天下の副将軍さま」だった水戸光圀公、いわゆる「水戸黄門」が隠居して最初にやった仕事は、「自分の墓」を建てることだった。
本人の生前に建てられる墓のことを「寿蔵(じゅぞう)」というらしいが、その墓の裏面に刻まれた文章は、水戸黄門さま自らが考案し筆を取ったと言われている。
その文章の中にこんな一節がある。
「有ればすなわち、有るにしたがって楽胥(らくしょ)し、無ければすなわち、無きに任せて晏如(あんじょ)たり」
意訳すれば「あって幸い、なくて幸い」といったところか。ここには、じつに柔らかな考えが示されている。
こうした柔軟性は随所に見られる。
「歓びて歓を歓びとせず、憂へて憂を憂とせず」
ここには、物事に一喜一憂しない様が見て取れる。
じつはこの碑文の文章とは裏腹に、若き日の光圀公はチクチクに尖(とんが)っていたという。
たとえば、神道以外の宗教は一切認めず、仏教は「頭から否定した」。その頑なさは思想全般に渡るもので、自身が信奉する儒学以外の言論を認めようともしなかったという。
黄門さまが隠居するのは52歳だったというが、その頃までには十分にほぐれていたのであろうか。
「神儒(神道と儒学)を尊んで、神儒を駁す。仏老(仏教と老荘思想)を崇めて、仏老を排す」と碑文にはある。
「駁(ばく)す」というのは、反対するということであり、「排す」というのは、退けるということである。神道も仏教も、儒学も老荘思想もみんなひっくるめて大事にはするが、必ずしもいずれかを絶対視して言いなりになるわけではない、と宣言している。
柔らかいような、尖っているような…。
宮本武蔵は「独行道」でこう書いた。
「神仏を尊んで、神仏を頼まず」
黄門さまにも武蔵にも通じるのは、「行雲流水(こううん・りゅうすい)」。自然のままに流れゆくことなのかもしれない。
死ぬ前に墓を建てた水戸の黄門さまは、いったい何を思い、何を伝えようとしたのであろうか?
ひょっとしたら、この碑文は自分自身への戒めだったのかもしれない…。
出典:致知2012年12月号
「生前に自分の墓碑銘を刻む 水戸光圀」
2012年11月25日日曜日
太陽黒点の増減と温暖化・寒冷化の歴史
「太陽が『冬眠』の準備をはじめたらしい…」
通常であれば11年周期で増減するはずの太陽の「黒点」の数が一向に増えてこない。
前回の極大値は2000年であり、2012年も終わろうとする本年は、通常であれば黒点の数が上向いていて然るべし。ところが、その気配がさっぱりない。
太陽の黒点は、太陽活動が活発なほど盛んに発生する。それは太陽が元気な証なのだ。
では、その黒点が少ないと、どうなるのか?
一言でいえば「寒冷化」する。
太陽が地球を守る力(磁力線)が弱くなって、地球の大気中に「宇宙線」と呼ばれるエネルギーの高い粒子が飛び込んで来やすくなる。すると、それらの粒子は水蒸気をイオン化したガスとなり、雨粒となり、雲となる。そして結果的には、雲が大量発生して地球を覆うことになり、太陽からの暖かい光を遮ってしまうのだ。
およそ350年ほど前(17世紀後半)に、太陽に黒点がほとんど現れない時代があった。あたかも太陽が冬眠してしまったかのように…。
それは「無黒点期」とも呼ばれる時代。当時の絵画に描かれた空はみな灰色で、ロンドンのテムズ川は完全に凍結してスケートリンクとなっている。こうした寒冷期はおよそ70年ほど続いたのだという。
おや? 今は温暖化による異常気象が騒がれているのではなかったか。
それなのになぜ、太陽の活動は「寒冷化」のような兆候を見せているのだ?
じつは現在、温暖化に向かっているのか、寒冷化に向かっているのかは定かではない。諸説入り乱れている。
たとえば、二酸化炭素が地球を温暖化させているという説があるが、それは国連のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)による一説にすぎない。その根拠はといえば、気温が上昇を始めた約120年前からずっと増え続けているのが二酸化炭素だから、きっと二酸化炭素が温暖化の原因なのだろうということだ。
しかし、二酸化炭素が地球の大気中に占める割合はわずか0.04%に過ぎないため、国連による二酸化炭素・温暖化説には当初から疑わしいところがあった。ただ、政治的なトピックスとして珍重されたために、あたかも最有力の説となってしまっているが…。
歴史をさかのぼってみると、二酸化炭素が今ほど多くない時代にも、温暖化している時期はたくさんある。
たとえば、日本の平安時代には温暖化により海水面が大分上昇していたらしい。鎌倉では鶴岡八幡宮の大鳥居前まで海岸線が迫ってきており、京都では九条通(現在の京都駅前)にまで大阪湾が入り込んでいたのだという。
西暦でいえば950〜1250年頃、太陽の黒点活動は非常に活発で、燃え盛っていた。
それが15世紀も半ば(西暦1450年前後)となると一転、太陽活動は弱まってしまう。シュペーラー極小期と呼ばれる寒冷期であり、当時の政権である室町幕府は不作続きにより弱体化してしまった。そして、長く暗い戦国時代へと続く応仁の乱が世を騒がせることとなる。
寒冷期というのは作物の生育が悪くなるために、時の為政者たちにとっては試練の冬となる。フランス革命が起こった時も、日清日露、第一次世界大戦が起こった時も、太陽活動が芳しくない寒冷期だったという。そうした時期には、少ない食糧を世界中で奪い合う時代となってしまうのだ。
食糧の奪い合いという争いの種は、今も昔も変わらない。
ここ数年世界を騒がせている「アラブの春」と呼ばれる北アフリカ一連の民主化運動も、食料価格の高騰が暴動の引き金になったとも言われている。
歴史は今なお、シンプルに繰り返しているのである。多少の文明化など気休めにすぎない。むしろ、情報の伝播が高速化しているために、世の変転は目まぐるしくもなっている。
そんな現代に寒冷化が起きたら?
もし、あと8年後の2020年までに太陽の黒点が増えぬままであれば、それは「完全に小氷河期に突入したと見ていいだろう」と専門家は言う。
まず考えなければならないのは、食糧の確保であろう。現代の科学力をもってすれば、寒さの中でも元気に育つ作物を増やすことができるかもしれない。
今後の地球はいったい温暖化へ転ぶのか、寒冷化に転ぶのか?
歴史を振り返ってわかることは、そのどちらも別に珍しいことではないということである。そして、時代がどっちに転がっても、過去の人々はたくましく生き抜いてきたという事実である。
歴史を生き抜くとは、きっとそういうことだ。
(了)
関連記事:
なぜ、人間は宇宙を目指すのか?
宇宙はマトリョーシカ。その最後の中身は…
出典:致知2012年12月号
「太陽の黒点の数が私たちに教えていることとは?」
「煩悩(ぼんのう)」と「漏尽通(ろじんつう)」
「煩悩」とは?
仏教では「貪(どん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」「慢(まん)」「疑(ぎ)」「悪見(あっけん)」の6つを六大煩悩と称するのだという。
「貪(どん)」とは、際限なく欲しがること。
「瞋(じん)」とは、目をむいて激しく怒ること。
「痴(ち)」とは、頭では分かっていても、ついやってしまうこと。
「慢(まん)」とは、驕り高ぶること。
「疑(ぎ)」とは、信じないこと。
「悪見(あっけん)」とは、思い込んでしまうこと。
これらの煩悩は「漏(ろう)」とも表現される。つまり、たとえ理性で抑えようとしても、うかとすると漏れ出てくるものという意味合いである。
そういうわけで、仏教では「漏(ろう)」をなくせとは言わない。漏れ出てくるのだからしょうがない。
では、どうするかのか?
「尽くせ」と言う。それを「漏尽通(ろじんつう)」という。
瞑想によって出し尽くせ、開放せよという。
神通力の一つとされる「漏尽通」であるが、これは他宗教の教えにはない、仏教独特の一大特徴なのだということだ。
出典:致知2012年12月号
「空海の言葉に学ぶ生き方のヒント」
2012年11月24日土曜日
われ言うことなからん「孔子」
革命への教科書。「闘わずして闘う」
「どんな独裁政権でも自分で思っているほど強くはない
どんな人民でも自分で思っているほど弱くはない」
ここに一冊の本がある。これは「数え切れない人々を独裁政権の抑圧から解放する手助けになった名著」だ。20年前に出版されて以来、30以上の言語に翻訳されてウイルスのように世界中に拡散した。
その著者はといえば、「とても過激派には見えない人物」。
彼はゆっくりと口を開く。
「機関銃で武装した兵士に向かって行進すべきではありません。それは賢いやり方ではないのです。もっと過激なやり方があるのです…」
固唾を飲んで、次の言葉を待つ一同。
「…街を、完全に沈黙させてしまうのです…」
男はささやくように声を潜める。
「…全員が家で沈黙するのです…」
彼の名は「ジーン・シャープ」。今年84歳になるアメリカ人だ。
彼に言わせれば、「独裁体制を転覆するのに最も効果的な方法」は「暴力ではなく非暴力」となる。ガンジーに代表されるような非暴力抵抗運動である。
「どれほど残酷な独裁政権であろうと、国民の指示なしには存続できない」。シャープの革命思想はこの「すばらしくシンプルな前提」に基づいている。
「政府に力を与えているのは、いったい何なのか?」
この問いにシャープはずっと向き合い続けてきた。それは「統治される人々」ではないのか。じゃあ、もし彼らが政府への協力と服従を拒否したら…。
突然、彼は悟った。
「その『支え』を取り払ってしまえばいいのだ!」
「闘わずして闘う」
この矛盾の中に答えがあった。それがシャープの非暴力闘争だ。この研究に没頭したシャープは、ウェブで900ページにも及ぶ解放の手引き書を公開した。
彼の研究を真剣に受け止めたのは平和主義者よりも「軍事関係者」だった。軍事に詳しい者ほど、シャープの説く力関係や戦略、戦術について深く理解できたのだ。
「暴力の他に民主化の方法があるはずだ」
ミャンマーの人々は、自国の軍事政権に対抗するために「20年間も戦い、人を殺してきた」。そんな彼らは、暴力の他に民主化の方法があると説くシャープの理論を聞いて仰天した。
感銘を受けたミャンマーからの亡命者の一人が、「自分たちのために何か書いて欲しい」とシャープに懇願した。そして生まれたのが、冒頭の名著「独裁体制から民主主義へ」だった。
この書は、ミャンマーの人々にとって「革命への教科書」となった。軍事政権下で暮らすミャンマーの活動家たちは、この本のコピーをこっそり交換して、隠れて読み回した。
この書を入手したミャンマーの独裁政権は驚愕した。じつに恐ろしい。まるでシロアリが木を食い荒らすようではないか…! 戦々恐々とした軍事政権は、この書を見つけるや禁錮7年という重い刑を活動家たちに課すことにしたほどだった。
この革命の教科書は、ミャンマーからインドネシア、セルビアへと独り歩きを始めて、ついには「アラブの春」に火を付けたとも言われている。
2009年にノーベル平和賞にノミネートされたシャープのもとへは、今も世界中から多くの人々が足を運ぶ。
「私たちの国はもっと酷い。抑圧がもっと激しい」
シャープのもとを訪れる人々は、一様に悲観的である。そんな訪問者たちに対して、シャープは「何をしなさい」とは決して言わない。ただ一つ気づいてもらいたいことがある。
それは、「どんな独裁政権も自分で思っているほどは強くないし、どんな人民も自分で思っているほどは弱くない」ということだ。
シャープと話をすると皆、何かしらかの「種」をまかれる。
そして、そこから新しい可能性が生まれるのだ…!
出典:COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2012年 11月号
「シャープ博士の『非暴力革命の教科書』を読む」
苛烈なる江戸の儒学者「柴野栗山」
「死する時はむしろ死するのみ。
丈夫ひとたび郷を去りて親を辞せば、
あに、学成るなくして、いたずらに帰る者あらんや」
江戸時代の儒学者「柴野栗山(しばの・りつざん)」の言葉。
幼少より病弱だったという栗山(りつざん)は、18歳のときに幕府の学問所「昌平黌(しょうへいこう)」に入学。しかしやはり、病気ばかりしていた。
そのため、周囲からは「もう故郷に帰ったらどうだ」とまで言われる始末。
「何を!」と思った栗山の吐いた言が冒頭の言葉。
「死ぬ時は死ぬだけだ。男たるものが一旦故郷を離れ、親に別れを告げたのならば、どうして学問が成る前に帰れようか!」
病の薬を買うために着物を質に入れてまで猛勉強を続けた栗山(りつざん)。
栗山をからかった同僚たちが学問所「昌平黌」のあまりの難解さに次々と離脱していく中、最後にただ一人残ったのが、この栗山だけだったという逸話も残る。
挫けそうになったときに、栗山がさすっていたという額の傷跡。
それは少年期に教えを受けた厳格な教育者「後藤芝山(ごとう・しざん)」に額を小突かれた傷跡だったという(芝山は漢文訓読の返り点で有名。後藤点もしくは芝山点)。
その傷は死ぬまで残ったと云われるが、それは恩師からの何よりの忘れ形見だったのかもしれない。
晩年の栗山(りつざん)はある時、何を思ったのか、自分の書物や文書をすべて焼き捨ててしまう。
「世の中にはたくさんの書が出回っているのだから、あえて自分の書いたものを残す必要はない」というのがその言い分だった。
若いころ、栗山はある陽明学者に感銘を受けている。その善兵衛という学者は、橋のたもとでみすぼらしい暮らしをしていた。聞けば、火事ですべてを失ったとのこと。その善兵衛が言うには、「すべてを失って万事休すと思った途端に、悔やむ心もなくなってしまった。この心を大切にすれば、人として大節ができ、利害に惑わされることもなくなる」ということであった。
なるほど、晩年に自らの書を焼き捨てた栗山の心にも、善兵衛のそれと相通じるものがあったのかもしれない…。
出典:致知2012年12月号
「儒者たちの系譜 柴野栗山」
2012年11月23日金曜日
お金に前向きなユダヤ人
その「ユダヤの人」は、日本では少々失礼に思われた。
なぜなら、新築の家のお祝いに来て、「土地はいくら?」「ローンは?」「総額は?」などとズケズケと聞いてくるのだ。日本人の社交辞令などあったものではない。
それでも、それはユダヤの国・イスラエルでは少しも失礼なことではない。
なぜなら、お金に対する「マイナスのイメージ」が彼らにはないからだ。彼らを失礼と感じるのは、日本人がお金を勝手に「腹黒いイメージ(越後屋?)」と結びつけ、清貧(清く貧しいこと)こそが美学と思い込んでいるためでもある。
ユダヤ教によれば、お金は「神からの祝福」。
そして、どんなにお金を荒稼ぎしたとしても、世間に妬まれることもなければ、バッシングを受けることもない。というのも、彼らには「稼いだお金で他者を助ける」という大義名分があるからだ。熱心な信者であれば、年収の10%を慈善寄付などの施しに回す。
寄付といっても、ただ与えるばかりではない。教えによれば、施した金額は、のちに10倍となって返ってくるのだ。つまり、寄付は心を満足させるだけの消費ではなく、明らかな「投資」なのである。
ユダヤの民は長い間祖国を失い、流浪する国々で迫害を受け続けたという歴史上マレにみる不遇を生き抜いてきた。
それゆえに、生きる知恵というのは独特なのかもしれない。とりわけ、日本のような安定した島国とは考え方も根本的に異なるのだろう。そして、その彼らの逞しさが、この流れの激しい激動の時代にマッチするのかもしれない。
投資家のジョージ・ソロス、映画監督のスティーブン・スピルバーグなどの世界的な成功者は、みなユダヤ人である。
一般的に、ユダヤ人の成功の根底には「タルムード」と呼ばれる教えがあるという。しかし、より大切なことは、その教えを徹底的に「議論」することにあるとも言われる。
彼らのユダヤの人々は他人の情報を鵜呑みにはしない。たとえ宗教の教えといえどもそうで、その教えをどう解釈するかで激論を交わすのだ。
たとえば、ニュースでこんなニュースが流れたとしよう。「イスラエルで2人が死亡…」。
日本人ならばフーンと聞いて当然信じてしまうであろうが、あるユダヤ人はニュースも信じない。「これはウソだ。なぜなら…」。蕩々と自分の意見を語り始めるのだ。
自分に入ってきた情報を頭から信じるということはまずなく、必ずいったん自分の頭で噛み砕き、そして納得しなければ決して信じようとしないのだ。
そんな彼らにとって、「反対意見」は大歓迎。
日本人は自分の意見に反対されることに腹を立てるかもしれないが、ユダヤの人々はそれを「新しく革新的な考え」と受け止めるのだ。他人の意見をむやみに受け入れるわけではないが、「自分の中になかった考え」を大歓迎するのである。
「Why(なぜ)?」「Think(考えろ)!」
「なぜ、日本で贈り物をもらったら、半額分を返すのか?」
ユダヤの人は不思議に思う。彼らは「それが風習だから…」などという答えには満足しない。
「君はそれが正しいと思うのか? そもそも、なぜ半額なのか?」
日本人は汲々とするよりほか、ないであろう…。
出典:致知2012年12月号
「人生を劇的に変えるユダヤの教え」
2012年11月20日火曜日
「頭でっかち」と「心でっかち」
2012年11月18日日曜日
文字情報に偏ったインターネットは「クール」じゃない
「インターネットは『クール』ではない」
メディア論で知られるマーシャル・マクルーハンはそう言う。なぜなら、インターネットの情報が「視覚情報」、わけても「文字情報」に著しく偏っているためである。
彼の考えている「イケてる(クールな)メディア」というのは、「感覚を拡張してくれるメディア」である。その点、まだ「活字と画像」にとどまっているインターネットは、その範疇に入らないというのである。
「文字だけでは重要なことは伝わらない」
そう考えたのは古代ギリシャのソクラテスも同様であった。彼は本を書き残すことがなかった。それは「どう誤解されるか分からない」という理由からだ。それゆえ、実際に顔を合わせて、言葉を交わすことをソクラテスは好んだのである。
「文字」が招くのは、誤解ばかりではない。
「感覚の貧困化」を招くとマクルーハンは言う。感覚は拡張されるどころか、乏しくなっていくというのである。
その是非に関しては議論の分かれるところであるかもしれないが、他者との直接交流とは違うことだけは明らかだ。
「五感を超えた交感」
そんなインターネットであれば、マクルーハンも「クール」だと認めるのかもしれない。
出典:COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2012年 11月号
「市民運動は変化する」
2012年11月17日土曜日
省エネの「脳」、場所と電気を食う「コンピューター」
富士通のスーパーコンピューター「京(けい)」の計算速度は「人間の脳」の4倍、データ容量は10倍だという。しかし、「消費エネルギー」で比較すると、圧倒的に人間の脳のほうが「高効率」だ。
「人間の脳は信じがたいほど高効率で、消費エネルギーは『たいして明るくない電球1個分』にも満たない(約20W)」
スーパーコンピューター「京」の消費電力は990万W。人間の脳の50万倍近くの「エネルギー食い」である。
「京一台は1万世帯が使う電力量を消費する」
また、その占有するスペースも、人間の脳は「頭蓋骨の中にキチンと収まっている」のに対して、スーパーコンピューターはじつに巨大なスペースを必要とする。
「インターネットを構成する世界中のサーバーを集めると、小さな都市ほどのスペースになるだろう」
なるほど、生物の真価は「少ない資源で大したことをやってのける」ところにあるらしい。
「人間のヒトゲノムの情報量は、ノートパソコンのOSほどもない」
ネコほどの小さな額でもそうだ。
「ネコの脳ですら、最新のiPadを凌駕しており、データ量は1,000倍、速度は100万倍近い」
だいぶ薄くなったiPadだが、まだまだ薄くなる余地は残されているようだ。
ソース:日経 サイエンス 2012年 02月号
「コンピューターvs. 脳」
2012年11月16日金曜日
空腹と満腹
時おり妻は、目からウロコが落ちるようなことを言う。
少し前、「どこまで食べるのか」を語った時も、そうだった。
「いったい、満腹まで食べてよいものか?」
その問いに対する妻の答えは「否」。
「空腹が収まれば、それで良し」と言うのであった。
なるほど、「満腹」という信号は、幸福感を刺激するその裏では、「警報」でもあろう。
「もうこれ以上入れたら、ヤバイですよ」という身体からの警報。言うなれば、掃除機のコードを引っ張り過ぎた時に現れる「赤いテープ」だ。
人類の永い歴史において、現代ほど頻繁に満腹になるのは稀有のことであろう。それゆえに、満腹感は幸福感と結びついてしまったのかもしれない(適当論)。
しかし現代、「食いすぎ」はあらゆる病の起爆剤となってしまっている。このままあと数百年も「満腹の時代」が続くのであれば、身体と脳が学習して、満腹感と不快感を結び付けるのかもしれない。
しかし、それまでに人類が支払うであろう代償は少なからぬものとなるであろう(すでに支払いは始まっている)。
満腹になろうとするのは、向上心旺盛な人類の性向なのかもしれない。
しかし一方、「最低ラインで良し」とするのも、ワビサビの美学であろう。
「空腹が収まれば良しとする」という姿勢には、そんな美しさが漂っている。
空腹とは何ぞや、満腹とは何ぞや?
面と向かったラーメンに問いかけるのであった…。
(ノビるよ!)
疑問という門の先
とある駅の構内に、「疑問から始まる学問」という気の利いたフレーズを見かけた。
なるほど、「疑問」という門をくぐった先にあるのが、「学問」という門であろう。
しかし、その先となると道は不確かとなるばかり。その途上には「苦悶」、「煩悶」などの易からざる諸門が立ち塞がる。
この段階に至りてようやく、前門には虎、後門には狼であったことに気付かされざるを得ない。
やむなく、シッポを巻いて逃げ出せば、その見苦しき様は、肛門から吐き出される汚物のごとし。
しかしそのせいか、腹のうちはどこかスッキリとしている。そんな"もん"だ。
そもそも、疑問という門をくぐったのは、何かを疑ったからに他ならない。
そして、散々に門内をのた打ち回ってみた後は、汚物のような、まことにつまらぬモノでも、何かを信じる気にはなっている。
詰まっていたのは他でもない、信じられぬ何かであったのだ。
今朝、珍しく澄み切った空の向こう、遠方に立っする山々の頂きが汚れなき白さに染まっていた。
また美しい季節が巡ってきた。
それはそれで、いい"もん"だ…。
2012年11月15日木曜日
禅僧・快川紹喜と武田信玄
信玄(戦国大名・武田信玄)は意表を突いて、快川(禅僧・快川紹喜)の力量を試したことがあった。ある日のこと、居室にこもって座禅を組んでいる快川の背後に忍び寄り、いきなりその鼻先に白刃を閃かせたのである。
ところが快川は自若としてたじろがず、間合いをとっておもむろに一篇の偈(げ)を唱えた。
「紅炉上、一点の雪」
紅炉とは、火が赤々と燃えている炉のことを言う。そんな炉の上に一片の雪を置くと、たちまち跡形もなく溶けて消える。それと同じように、人間が本来の仏性に目覚めていれば、仮りに私欲や妄想にとらわれることがあっても、一瞬にして解け去ってしまうものだ。禅の悟りとはそういうものであり、この不動心を備えている限り、どうして自分の生死に拘泥し、不意の白刃に怯えたりすることがあろう。
信玄は、大悟徹底した禅の高僧に相応しい快川のこの応対を前にして、自分の軽率を悔い、虚心に頭を垂れたが、快川はさらに説いて信玄のより高度の自覚を促した。
「公のような国主の立場にある御仁が、軽々しく刀を弄ぶものではありませぬ。肝心なのは心の修養とわきまえ、今後みずから刀を取らぬようお心掛けあられよ」
信玄はこの訓戒を受けて、快川に傾倒することますます深く、その後はついに一度も刀を手にすることはなかったという。
時は下り、天正十年三月。
信玄亡き後の武田領内には、織田信長の下知を受けた軍勢が怒涛のように攻め入り、追い込まれた武田家当主・勝頼は天目山の麓で自害。
そのおよそ一ヶ月後、織田の軍勢は快川のいる恵林寺を包囲し、百余人らの僧を山門に追い上げた。それからほどなく、恵林寺山門は猛火に包まれ、凄惨な修羅場が現出することになる。織田軍が放った火は足元を這いのぼり、見る間に黒煙となって楼上を押し包んだ。
快川は座禅したまま、従容と火中に生命を断ったが、その寸前、次のような人口に膾炙する遺偈を、同座の百余人の衆僧の前で唱えたという。
安禅は必ずしも山水を須(もち)いず
心頭滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し
抜粋:「名将の陰に名僧あり(百瀬明治)」
第三章「武田信玄の陰に快川紹喜」
2012年11月13日火曜日
苦渋のポーツマス条約。羨望と警戒
日本はロシアと戦う前から、「講和」を考えていた。
戦争する期間は1年間ぐらい、6分4分の勝ちで良し。
それが小国日本が大国ロシアとの決戦に踏みきれた理由でもあった。
その講和の絶好のチャンスとなったのが、日本海海戦(1905年5月)における日本軍の大勝利。ロシアが最後の望みを託していたバルチック艦隊が壊滅してしまったのだ。
しかし、それでも不十分だと考えたのがアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領。のちに日露間の講和を斡旋することになる彼は、金子堅太郎にこう言った。
「日本軍は今のところ、何もロシアの領土を占領していない」
そこで急遽、日本軍は「樺太」へと兵を進め、1ヶ月もかけずにアッという間に占領してしまう。
この樺太占領は、ロシアを講和のテーブルに着かせるためだけの、いわば「付け焼刃」であったという。
さて、いよいよポーツマスで日露の講和会議が行われることになるが、ロシアは不利な戦局におかれながらも、がぜん強気である。
ロシア皇帝ニコライ2世はあらかじめ、「1ルーブルの賠償金も、1ピチャージの土地も日本に渡してはならない」と全権大使ウィッテに言い含めていた。
有利な戦闘を展開していた日本とて、講和を急がなければならない理由がある。なにせ、日露戦争の戦費は当初予算の7倍にも膨れ上がっており、長期的な戦闘継続はほぼ不可能であった。
莫大な戦費による財政の大穴を埋めるため、ぜひにも賠償金が欲しい日本。それをビタ一文とて支払いたくないロシア。頑ななるウィッテは「ここには勝者も敗者もいない」と豪語する。
この絶望的な交渉はおよそ1ヶ月、10回の会議の末にようやく結論をみる。それは、アメリカの駐露大使の説得が奏功し、ロシア皇帝ニコライ2世が「樺太の南半分」を譲ることに渋々同意したからであった。しかし、賠償金を支払うことは断固として拒否した。
「賠償金はまったくなく、全島占領したはずの樺太も南半分だけ」
これが、大国ロシアに日本の勝利を認めさせた条件だった。
納得いかぬのは日本国民。日比谷公園に集った市民は暴徒化し、各所を襲撃して回った。この日露戦争における日本人の死傷者は22万7,000人(うち戦死者8万4,000人)。これほど犠牲甚大なる大戦争が、無に帰してしまったことに我慢がならなかった。
それでも、大国ロシアに勝利したという日本の「名声」は世界に鳴り響いた。
それまで未開国とされていた日本が、世界に「一等国」と認められるようになるのは、この日露戦争以後のことである。日本はアジア・中近東・アフリカなど「これからの国」に先駆けて、羨望と模範の的となったのだ。
しかしその一方で、欧米列強からは「警戒の目」で見られるようにもなる。とりわけ日米関係はこじれにこじれ、アメリカでの日本人移民排斥運動は激化、悪化の一途をひた走るのであった…。
出典:歴史人 2012年 01月号
「日本はいかにして日露戦争を終結させたのか?」
2012年11月11日日曜日
不敵なる東郷ターン、バルチック艦隊を殲滅
ロシアのバルチック艦隊を眼前にした日本海軍。
その旗艦「三笠」のヤードには「Z旗」が翻った。この旗の意味するところは「皇国の興廃、この一戦にあり」という悲壮なる覚悟である。
そして、Z旗が掲げられた10分後、司令長官・東郷平八郎は右手を高々と上げ、左回しに回した。
「長官、取り舵ですか?」
参謀長の加藤友三郎は念のために聞き返した。東郷の命に従えば、それは敵艦の射程距離内での「敵前回頭」となり、常識的な海戦術では自殺行為とされるものであった。
「さよう」
東郷に迷いはない。
のちに「東郷ターン」とよばれる敵前大回頭のはじまりである。
「しめた」
バルチック艦隊を率いるロシアのロジェストヴェンスキーは、即座に一斉砲撃を命ずる。回頭中の戦艦「三笠」率いる日本海軍第一・第二艦隊は、静止した的のように狙いが定め易い。
無防備にハラを晒した「三笠」の右舷には敵弾が面白いように命中する。司令長官・東郷の乗る「三笠」は右舷側に40発、左舷側に8発を被弾した。その激震や凄まじい。ところが不思議なことに、艦橋最上部(司令塔)には当たらなかった。
奇跡的に魔の5分間を凌ぎ切った戦艦「三笠」は、ついに反撃を開始する。
日本海軍の砲撃はロシア軍のそれとは比較にならぬほど正確で、ロシアの旗艦「スワロフ」の司令塔をあっという間に吹き飛ばす。この時、その司令塔にいたバルチック艦隊の司令長官・ロジェストヴェンスキーは重傷を負ってしまう。
「勝敗は最初の30分で決まった」
そう言われる通り、大胆不敵な「東郷ターン」は絶大な功を奏した。皮を切らせて、骨を断ったのだ。
バルチック艦隊は38隻で日本海にやって来たわけだが、わずか2日間のうちに日本海軍は16隻を撃沈、6隻を捕獲、6隻は自沈という大戦果。ロシア港ウラジオストックまでたどり着けたのはわずか3隻だけだった。
まさに「殲滅」。完全勝利である。「大日本帝国万歳、大日本海軍万歳、世界空前の大捷(大勝利)、敵艦隊全滅」。当時の新聞にはそう報じられた。
「まさか…」
世界の列強はその第一報が信じられなかった。「極東の小国が大国ロシアの艦隊に大勝するはずがない…」。そのため、日本の同盟国だったイギリスでさえ、事実を再確認するために新聞の発行を遅らせたほどだった。
重傷を負っていたロシアの司令長官・ロジェストヴェンスキーは、白旗を掲げて降伏した艦の中で苦しんでいた。そしてその後、佐世保の海軍病院に移送されて手厚い看護を受けていた。
そのロジェストヴェンスキーを見舞った日本海軍の司令長官・東郷平八郎。
敬意ある東郷のいたわりに対して、ベッド上のロジェストヴェンスキーは「敗れた相手が閣下であったことが唯一の慰めである」と慇懃に答えたという。
日露の講和条約が結ばれた後、東郷は日本海軍の解散式を行い、「解散の辞」を読み上げる。
「連合艦隊はここに解散することになった。(中略)。武力は艦船兵器のみにあるのではなく、これを活用する『無形の実力』にある。『百発百中の一砲』は、百発一中の敵砲に対抗しうる…」
この文を起草したのは参謀の秋山真之と伝わるが、アメリカ大統領ルーズベルトはこの辞にいたく感銘を受け、英訳文を将兵に配布させたとのことである。
この「解散の辞」は、こう締めくくられる。
「古人曰く、勝ってカブトの緒を締めよと」
(了)
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幻と消えた名将・乃木の築城作戦。旅順(日露戦争)
出典:歴史人 2012年 01月号
「皇国の興廃、この一戦にあり 日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅す!」