2012年9月15日土曜日
数学は「発明」されたのか、それとも「発見」されたのか?
もし、この世の「知性」が人間ではなく、「太平洋の深くにたった一匹で漂っているクラゲ」に宿っていたとしたら?
はたして「数の概念」が生まれ得たであろうか。数える対象ももたぬクラゲの知性に…。
このクラゲの”たとえ”は、「数学は『発明』されたのか、『発見』されたのか」という問いに基づくものである。人類は数千年間もこの問いの答えを見いだせずにいる。
「発明」となれば、「数」は人間が生み出した「道具」となるし、「発見」となれば、「数」は人間とは関わりのない「独立した存在」、言うなれば「神がつくり給うたもの」となる。
少なくとも、数学は人間の「経験」とは独立した「思考の産物」であると言うことはできる。数それ自体が実体を持つわけでもなければ、触れるものでもない。しかしそれでも、数学は現実世界を簡明かつ正確に表現する。
たとえば、量子電磁力学を用いて計算した電子の磁気モーメントの「理論値」は、最新技術によって「実験的に測定した値」と、1兆分のいくつというわずかな違いで一致していた(1.99115965218073)。
また、古い例をあげれば、スコットランドの物理学者・マクスウェルが書いた4本の方程式は、電波の存在を「予測」していた(1860年代)。実際に電波が検出されるのは、それから20年近くも後の話である。
なんと数学の記述する世界の正確なことか。「これほどうまく合致するのは、なぜなのか?」と、かのアインシュタインも頭を悩ませている。
「数学は発明なのか、発見なのか」
はたして深海の一匹のクラゲは、何かを数えようとするのであろうか?
ここで一つ注意しておくべきことは、たとえ数学がいかほど正確に世界を記述しようとも、まだまだ「数学的予測」が不可能な現実が山ほどあるという事実である。
たとえば、経済学では多くの変数を定量解析することに失敗している。もし、これが成功していたら、世界に景気後退などなくなるはずなのだから…。
しかし、逆に考えれば、数学に「限界がある」ということは、これは人間の「発明」に近いのかもしれない。ヒューマン・エラーは我々人間の得意とするところである。
まあ、ただ単に我々人間が「知らない変数」がまだまだたくさんあるだけの話かもしれないが…。そうであるのなら、我々はまだまだ「発見」する必要がありそうだ。
出典:日経サイエンス 2011年 12月号
「数学が世界を説明する日」
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